2009年度 世田谷市民大学 連続講義


「現代アジア都市の肖像」

第1回 梶原先生 4月15日 6/10
王都の憂鬱:バンコク
政治学者によって評価は違いますが、印象としてはタクシンさんのインパクトはものすごくあったような気がします。ただ、ご本人はタイ最大のテレコム会社の社長だったわけですが、その株を全部シンガポールの政府関係のテマセクホールディングという企業に売ってしまいました。しかも、その売却譲渡税をある種の特別な法律解釈で一銭も払わないということで訴追されて、そして公金横領とか汚職の疑いで裁判にもかけられているわけですね。タクシンの独裁的な性格に問題ありということですが、それを軍隊のクーデターによってひっくり返していくという、これまた非民主的なやりかたで反対派もやっているわけです。その辺の争いの根が深いということです。ですからタクシン王も独裁と、少し並外れたというか、一般常識から外れた行為でおろされてしまったという歴史的故事になぞらえると、今のタクシンさんも分が悪いのかもしれません。ご存じのようにヨーロッパのプレミアリーグのマンチェスターシティというフットボールチームも、タクシンが個人でオーナーになっています。しかし、お金が大変なので手放して、今度はドバイの王族が買っていますが、そうしたダイナミックな存在でもありました。

<「日本」の存在>
先程のスクンビット通りのお話を致しましょう。バンコクの都市を考える場合に、これは東南アジアどこでもそうですが、日本人の存在、それがバンコクの都市における重要な構成要素といっていいのかもしれません。
今海外の都市で日本人が一番居住している都市はどこかといいますと、上海やニューヨークが日本人人口の多い地域です。バンコクも日本人人口がきわめて多い都市で、日本の存在感は大きいといわざるをえません。いい意味でも悪い意味でも、バンコクを考える場合に伝統的なタイの都市というイメージだけではなしに、日本が関わってきた東南アジアの代表的な都市という言い方も間違っていないかもしれません。
私が最初にタイに行ったのは今から40年くらい前ですが、もうその頃からスクンビット通りに日本人の駐在員が住み始めるという事態は始まっておりました。1960年代の初めから後半にかけて、巨大企業は別として中堅企業くらいですと、民家を1軒借りて、1階が事務所で2階が住居というようなスタイルの日本企業がまだありました。
それが70年代になると完璧に職住分離でスクンビットのアパートに住んで、中心にシーロム通りという大きな通りがありますが、この両脇に当時の東京銀行であるとか三井銀行のオフィスも建ちましたし、川崎汽船とか東京海上とか、大手の日本企業がシーロム通り沿いにありました。シーロム通りでビジネスをして、住むのはスクンビット。日本人がある程度の数になりますと当然ここに日本食品店、日本語の書籍を扱う店、それからパッポンという有名な歓楽街がございますけれども、その隣のタニヤ通りには、日本食のレストランとか日本人が行くバーとか、そういうものが林立していくような状況が始まったのです。
これがどういう影響をバンコクに与えたかといいますと、1971年でしたか、本格的なデパートとして大丸が出来ました。それまでにも中国系のデパートがありましたが、大丸はタイ初めての本格的なデパートとしてビジネス好調で、どんどん拡大してきました。そこにキックボクシングの簡単なジムを作ってキックボクシングを見せるというようなことで客寄せをするつもりがタイ人の逆鱗に触れて、反対運動が起きたこともあります。タイ人にとってムエイ・タイ(タイ式ボクシング)というのはスポーツでも単なる見せ物でもなくて、宗教的な儀式も含む、文化的パフォーマンスの全体といってよいものです。その一部だけを切り取って来てスポーツとか見せ物として、しかも外国資本のものがやるとはなんたることかと火が付いて、日本品ボイコットとか不買運動が始まってしまいました。