2009年度 世田谷市民大学 連続講義


「現代アジア都市の肖像」

第1回 梶原先生 4月15日 7/10
王都の憂鬱:バンコク
当時はご存じのように田中角栄首相がタイやインドネシア訪問のときに、たとえばジャカルタで車から出られないで立ち往生してデモ隊に襲撃されるというようなこともありましたし、日本叩きの第一回目の時代でした。 つまり東南アジアに集中豪雨のような輸出をして、食べているものも工場でパックされたような食品も乗る車も全部日本製で、「私たちはいったい何人だろうか」とういう歌もタイで流行るくらいで、そういう時期だったのです。
否定的な日本のイメージというものを今日でも多少引きずっているところもありますが、バンコクに関してはそれよりも何よりも、日本のライフスタイルが東南アジアでも一番幅広く受け入れられたところといってよいでしょう。ですから、日本食品店はもともとローカルに居住する日本人のための店であったんですが、そうした文化生活スタイルがタイ人の都市中間層にどんどん広まっていくわけです。ある程度収入がある安定した人達。そうしますと同じ物を、たとえばデパートでいえばタイの有名なセントラルデパートにおいても、食品売り場が日本のデパ地下であるとか、日本の大きなスーパーマーケットの展示の方法とか、食品の構成、新しい日本食を紹介するということまで含めて、似たようなことを始めるわけです。これは日本がイニシアチブをとってやったものもありますけれども、タイのビジネスマンが日本的なものをタイのライフスタイルの中に持ち込むということも盛んにやりまして、シンガポールも確かに回転寿司その他早い導入をしていますけれども、タイは極めて早く日本のライフスタイルの一部を取り入れてきました。
若者文化にコスプレがありますが、昨年パラゴンに行ったときに、その中二階のような大きな広場でコスプレ大会をやっていました。日本のアニメの主人公の格好をした人が数百人も集まって、見物客もおりますからもう立錐の余地もない状態でした。タイの若い人に聞いてみると非常に一般的ということですが、それだけ大規模なものをタイで見たのは初めてでした。
バンコクのエスニックな構成要素として伝統的には華人/中国系、それから少数になりますけれどもインド系、ヨーロッパ系が存在しましたが、戦後は日本人がいろいろな影響を与えています。
もちろん戦前にも日本からの影響はありました。たとえば映画というタイ語はピューナンジープンというんですけれども、日本の皮膚とかフィルムっていう意味なんですね。最初の映写技師は日本人といわれていますし、写真館は日本人が戦前にひらきました。その時代からつながりはもちろんありましたし、日本では少し過大評価ですけれども伝説的な山田長政というお話もあります。外国の都市に日本人がこれだけ影響を与えたというのは意外と少ない。もちろん中国の大連であるとか台湾、今の韓国の諸都市のように帝国日本時代とか植民地時代がありました。日本帝国時代を経た都市に、それなりに影響が残っていますが、タイの場合は独立をずっと保ったわけですし、そういう意味ではやや特殊なケースなのかもしれません。
あるいは東南アジアの都市の中で、どこでも日本の影響はあるわけで、たとえばマニラでも戦前は日本人が何をしていたかというと、床屋さんをやったり、少し大きめの、卸売りを兼ねたような小売商店を経営していました。ですから東南アジアの都市はご縁がずっとあるんですけれども、その中でも戦後まで含めてバンコクがいちばん日本人と関係が深い都市といえるかもしれません。

<新都市中間層と都市の拡大>
さて、サイアムスクエアーやそのほかのコマーシャルセンターなど、こういうところに買い物に来る余裕のある人々、彼らをアジアにおける新都市中間層と呼ぶことが増えてきました。