2009年度 世田谷市民大学 連続講義


「現代アジア都市の肖像」

第3回 松岡先生 5月13日 4/9
ムンバイ:"ボリウッド"から世界に発信する大衆文化の都
その後、1687年にイギリスの東インド会社が、それまでいたグジャラート地方のスーラトという所から、ボンベイに拠点を移します。それがまた、ボンベイの発展に繋がります。
それから年表の1818年に、「イギリスが第3次マラーター戦争に勝利」と書きましたが、マハーラーシュトラ州の人々のことをマラーターと呼び、言葉はマラーティー語と言います。このマラーターの人たちは、イギリスやポルトガルがやってきた当時、ここにマラーター王国を築いていました。マラーター王国の創設者がシヴァージーという人で、その人が非常に優れた王様だったというので、いまだにマハーラーシュトラ州の人たちはシヴァージーをとても尊敬していて、愛国の英雄と考えています。ムンバイの中心に大きな駅があるんですが、そこも以前はイギリスの女王の名を取ってビクトリア・ターミナスと言っていたのを、今は、チャトラパティー・シヴァージー・ターミナスという名前に変えたりしています。
このマラーター王国はイギリスの侵攻に非常に抵抗したわけですけれども、結局うち破られ、イギリスはこの辺りを制圧してしまいます。そして内陸部へと鉄道の建設を始めます。現在インドには、非常に細かく鉄道網が張り巡らされていますが、これもイギリス時代の産物で、鉄道建設の拠点になったボンベイはまた発展することになります。
さらには1869年にスエズ運河が開通して、ヨーロッパから来る時に、それまではアフリカの南を回って来なくちゃいけなかったのが、地中海からスエズ運河を通ってすっと来られるようになります。南を回ると南インドの方が早く到達できて便利なんですが、スエズ運河を通って真っ先に着ける港ということで、さらにボンベイの重要度が増していきます。西海岸にあるので、ヨーロッパからの情報がいち早く届く。イギリス人をはじめヨーロッパ人も大勢住んでいたため、イギリス風の建築物がどんどん建てられるようになった。それらの建物は今でもムンバイの中にたくさん残っていまして、もうだいぶ古びてきたので輝きは失われてきましたが、まるでヨーロッパのような風景を出現させています。
そういうふうに発展を続けてきたボンベイは、1947年にインドがイギリスから独立して首都がデリーになって以降も、西洋文化を取り入れた非常にモダンな都市として、しかもデリーが政治の中心地であるとすると、商業の中心地として発展を続けていきます。日本の商社なんかも、まずボンベイ支店を開設をして、それからカルカッタ支店やデリー支店を開設する、ということになり、商都としてボンベイはさらに大きくなります。こうして今日に至るわけですが、この辺から私の専門である映画のお話に入っていきたいと思います。

レジュメの年表で、年号を四角で囲んだのが映画史関連の事項です。映画というのは、1895年末にフランスのリュミエール兄弟が、今のような動く映像を一般の人に見せられる形で作ったのが最初と言われています。その映像が、早くも翌1896年、ボンベイにやってきます。ボンベイで上映された結果、新しもの好きの人たちや外国人たちの間で大評判を取り、そこからインド中に広まっていきます。当時はまだアメリカのハリウッドが発達する前なので、ヨーロッパの映画が多かったのですが、もちろん音が全くないサイレント映画です。
そのうち、インドでも短編映画が撮られはじめ、そしていよいよ1912年に長編劇映画が撮られることになります。それ以降、何でも映画に関しては一番最初がボンベイ、ということになるんですね。1912年に初めての劇映画がボンベイで撮られて、1913年に完成します。