2009年度 世田谷市民大学 連続講義


「現代アジア都市の肖像」

第4回 松岡先生 5月20日 4/9
シンガポール:アジア諸国を後背地に持つ他民族・他文化都市
シンガポールでは地下鉄でも、電車が主要駅に着くと「ここはどこそこです」というのを、この4つの言語で言ってくれます。駅の名前も、この4つの言語の文字で書いてあります。4つの言語の文字ですが、英語は皆さんご存じですね。今は午前中なので、挨拶は「Good morning」ですね。華語、中国語で一般的な挨拶を書いてみると、「イ尓好(ニーハオ)」となります。ちなみに広東語になると、同じ字ですが音が変わって「ネイホウ」と読みます。マレー語の「おはようございます」は「Selamat pagi(スラマット・パギ)」で、マレー語はローマ字を使って書きます。タミル語は前回皆さんに憶えていただきましたが、「ワナッカム」で、こういう字でした。
この4つの文字で、いろんな表示も書かれています。4つの公用語があって、それぞれの民族によって使用言語が違う。さらに、その民族の中には第2使用言語もあるので、言語を統一して「シンガポール語」とかを作るのはとうてい無理だったのでした。このシンガポールという、言語もバラバラで多民族の寄り集まりである国を、何とか統一していかなくてはいけない。リー・クアンユー首相は、そこに心を砕くことになります。

そのために政府がどういう方法を取ったかというと、学校教育、あるいは市民教育の場で、我々ははシンガポール人なんだ、We are Singaporeanという意識を、常に持たせるように教育していきます。どんな時でも、私たちは華人だ、マレー人だ、インド人だ、という意識よりも前に、シンガポール人なんだという意識を強く持たせるようにする。そういうキャンペーンが1965年の独立の前ぐらいから、強力になされるようになってきます。時には強権的に国民統合、ナショナル・インテグレーションと言いますが、それを実現していくために、それに反する動きを力で抑えつけたりしながら、リー・クアンユー政権は続いていきます。

とはいえ、国のレベル、公のレベルではシンガポール人だとは思っていても、日常生活のレベル、あるいは受容している文化のレベルでは、みんなそれぞれ自分のルーツに強く縛られていたんですね。それを映画を例に見てみましょう。
実はシンガポールでの映画の普及に関しては、日本人が最初の頃かかわってきています。1905年頃に日本人が、その前年に起こった日露戦争のフィルムを持って、マレー半島を回って人気を得ていきます。日本海沖の海戦とか、そういう映像がずいぶん人気があったそうです。その後は上海からやってきた中国人たちが、シンガポールで映画製作を始めます。
その映画製作なんですが、当時から作られる映画は、マレー語の映画だったんですね。というのも、その頃すでに中国は中国映画を作っていて、盛んに輸出をしていた。インドはインドで映画を製作し、輸出していた。サイレントの時代からすでに、中国やインドの映画がシンガポールにはやってきていたので、トーキーになってもずっと輸入が続いていた。ですので、わざわざ中国語やインド諸言語の映画を作らなくても、本国から映画がどんどんやってくるわけです。他では作られない映画がマレー語の映画だったので、シンガポールではマレー語の映画が作られ始めます。戦後もシンガポールでマレー語映画の製作が再開され、シンガポール、それから今のマレーシアで人気を博し、時にはインドネシアにも輸出されたりしていました。インドネシア語は一部が違うだけで、マレー語とほぼ同じなんですね。
それが1965年にシンガポールとマレーシアが分かれてしまったことから、華人が多い土地でマレー語の映画を作るという動機付けが薄くなってしまいます。さらにシンガポールの大手映画製作会社が衰退したこともあって、マレー語映画の製作はマレーシアへと移っていき、シンガポールでの映画製作は一時途切れてしまいます。ちょうど1970年頃から約20年間、シンガポールでは映画製作がなされなくなります。