2009年度 世田谷市民大学 連続講義


「現代アジア都市の肖像」

第4回 松岡先生 5月20日 5/9
シンガポール:アジア諸国を後背地に持つ他民族・他文化都市
ですが、映画製作がゼロになっても、シンガポールの人たちは全然困らなかった。華人たちは、中国では文化大革命があったりして中国映画はそんなに入って来なかったんですが、香港、台湾から現地での封切りと同時ぐらいに映画が入ってきていたので、それを楽しんでいた。それから、マレー語の映画はマレーシアのクアラルンプルで作られ、これも入ってきた。インドの映画は、タミル語映画と、それからこの間お話ししたボリウッド映画、つまりヒンディー語映画がコンスタントに入ってきて非常に人気があった。英語映画はもちろんハリウッドからどんどん入ってきます。ということで、自分の国で映画を作る必要はまったくなかったんですね。

私は後背地と呼びましたけれども、自分たちのルーツの国、そこから文化がどんどん流入してきたので、シンガポールは独自文化をつくり上げる必要がなかったわけです。一方後背地の側も、シンガポールを始めとする東南アジアを重要なマーケットと位置づけていました。
香港では当時、広東語の映画と北京語の映画を作っていたんですが、そのほか、東南アジアに移民した人たちの母語である潮州語の映画や福建語の映画なども作られていました。潮州語や福建語の映画は香港ではほとんど公開されず、あくまでも東南アジア向けでした。それぐらいこの辺りの人たちは、母語の映画を見ることに夢中になっていたわけです。北京語、つまり標準中国語の映画や、香港の言葉である広東語の映画も人気があったのですが、潮州語や福建語の映画はシンガポールではとりわけ大人気でした。
ただ、さっき言ったように、華語で統一するという方針が出されて以降は、香港映画も広東語ではなくて北京語吹き替え版が輸入されるようになりました。その頃には、香港の潮州語や福建語の映画製作も下火になっていたので、中国語映画はすべて華語のものがシンガポールでは上映されることになります。中国映画は文化大革命が終わったあと、80年代後半から勢いを盛り返し、海外でいろんな賞を取って認められていきます。その頃から、シンガポールでも中国映画の公開が増えていきます。

それから近年になって、その他の言語の映画も公開されるようになりました。シンガポールが経済発展をすると女性の社会進出が増えてくるんですが、そうすると家で家事をしてくれる人が必要になってきます。そういう時、フィリピンとか、インドネシアやタイからお手伝いさんを招いて家事をしてもらい、主婦が社会進出をしていく、そういうシステムが80年代ぐらいからできあがっていきます。アマさんという呼び方をするんですが、シンガポールにフィリピンを始め、インドネシアやタイからアマさんがやってくるようになり、彼女たちの本国の映画も公開されるようになります。こうしてシンガポールは自国の映画を必要としないまま、後背地となるアジア各地で作られる映画を十二分に享受して、文化的な生活を充実させていきます。

ところが90年代に入ると、状況が少し変わってきます。1990年にリー・クアンユーが退陣し、その後呉作棟(ゴー・チョクトン)が首相になります。ゴー・チョクトン政権になった頃から、いろんな社会的な締め付けはまだ残るものの、シンガポールが経済発展をし、国としての形も整えたということで、シンガポールの人たちにとって自国に対する自信と誇りが出てくるようになります。そうするともう、そんなに強い意識で、シンガポール人としての締め付けをしなくてもいいような状況になってくるわけですね。