2009年度 世田谷市民大学 連続講義


「現代アジア都市の肖像」

第9回 宮脇先生 6月24日 3/9
遊牧民と農耕民が交わる首都:北京
北方から見ると、契丹は中国の代表に見えたので、ラテン語に入ってカタイになり、今の香港のキャセイ航空のキャセイもこのカタイからきています。ヨーロッパが中国を呼ぶ呼び方には、チャイナとカタイの両方があるわけです。
契丹は、モンゴルから出てきた遊牧民の王朝で、南の中国にちょっとだけ入った燕雲十六州を支配しました。燕が先に言ったように北京のことで、雲は大同のことです。それで今の北京に、「南の都」という意味で南京を置いたんです。契丹にはじつは東京も西京もあるんですが、"トウキョウ"って読むと日本の東京とあまりに紛らわしいので、この場合は"トウケイ"と読みます。初めに言ったように、漢字は見てわかる通信手段だから、読み方はどうでもいいのですけど、東京(とうけい)や南京(なんけい)や西京(せいけい)というと、中国の歴史のことだとはっきりわかりますからね。
契丹に続いて女真人(じょしんじん)(女直人(じょちょくじん))が金(きん)を建てました。彼らは狩猟民で、のちの満洲人の祖先です。馬に乗らず、歩いて毛皮獣を捕り、朝鮮人参を集める人たちなので、遊牧地よりは南の農耕地に興味がありました。それで、モンゴル草原の方には行かずに中国の淮河(わいが)まで南下しました。今の北京は領土の真ん中になったので、ここを中都(ちゅうと)と呼びました。
次にモンゴル人が建てた元朝は、ここを大都(だいと)と呼びました。マルコ・ポーロが、世界で一番立派な都だった、と言っています。コロンブスだって、大都と貿易したくて、反対側に船出して、それでとうとうアメリカ大陸を発見しちゃったくらいですから、世界中の富の中心だったわけね。
ところが、遊牧民の君主は、中国を支配しても自分たちの生活を変えませんでした。街中に住むよりも、キャンプをしながら鷹狩りをするほうが好きで、本拠地はあくまでモンゴルの草原でした。大都は避寒キャンプ地で、冬3ヶ月しか住まず、夏は北の涼しいモンゴル草原に移動しました。ただし、遊牧民以外の家来は大都に住んでいました。
夏の3ヶ月はモンゴル草原の中にある上都という綺麗な都にいて、冬は大都に戻ってきて、大都の付近で狩猟をしました。人が立ち入らないように囲った禁地を作る。今でいうサファリパークですけど、もっと自然のままで、北京の近くにもありました。
さて元朝末期に南方で紅巾(こうきん)の乱が起こり、大都を包囲しました。もともと冬の都だったので、モンゴル人の元朝皇帝と側近たちは、とりあえず本拠地の草原に退却しました。
紅巾軍の親玉が、明を建てた朱元璋(しゅげんしょう)です。明の都は最初、南京でした。ところが、燕王(えんおう)、つまり今の北京を領地とした、のちの永楽帝が、クーデターを起こして甥を殺して皇帝になった。彼が、都を南京から北京に移したんです。
永楽帝はモンゴルの元朝と同じような国を作るつもりで、モンゴル高原に5回も軍隊を送り、鄭和(ていわ)の遠征もしました。だから、都をもう一度大都に持ってきたんですが、最初は南に首都があったので、ここを北京と名づけました。だから、北方の読み方でベイジンではなく、南方方言でペキンと今でも言うんです。
明の永楽帝はモンゴル草原のかなり奥地まで軍隊を派遣し、大興安嶺(だいこうあんれい)より東の満洲はとりあえず征服しましたし、それから雲南も征服したけれども、とうとうモンゴルは征服できなくて、5回目の遠征途中で死んじゃったんです。このあと金のかかる遠征はやめて、万里の長城をどんどん作ったのが、今私たちが見ている万里の長城です。永楽帝の時代に北京の付近を造り、そのあと150年間、西の方まで作り続けたんです。しかも、北京から大同までは二重になってる。それくらい北の遊牧民が強かった証拠ですよね。