2009年度 世田谷市民大学 連続講義


「現代アジア都市の肖像」

第9回 宮脇先生 6月24日 4/9
遊牧民と農耕民が交わる首都:北京
北京に行くと必ず万里の長城へ行かれると思いますが、八達嶺の付近は綺麗に修復しているけれど、ちょっと行くと危なくて歩けない。清代にはモンゴル人が家来になったので放棄されましたからボロボロです。今は観光資源になるので、どんどん直しています。
どうして万里の長城のようなものが必要だったんだろうか。遊牧民は関所を破って侵入するので、明代の北京は何度も遊牧民に包囲されています。だから軍事上は役立たずでした。もちろん、羊や馬は越えられませんよね。だけど、あんな山の上ですもん。こんなところを遊牧民が越えて来るかしら、って思います。あんなにお金をかけて、長い長城を造り、見張り台を置いて、一体何を警戒したんだろう。だから、一説には、ここから南は我々の領土である、明であるぞ。ここを越えて行ってしまった人間は保護しない、と。そういう境界線を作ったんじゃないかという説もあるくらいです。

3.中国文明の誕生
さて、これで前半の話を終わります。つまり、北京というのは中国の中でもっとも北よりの街である。最初から軍事的な意味がある都市だった。つまり、北からやってくる人は中国支配のためにそこを拠点にするし、南の人間は北に対する防衛の最前線として防備を固めるという政治都市だった。だから今も、北京が中華人民共和国の首都である理由は、南の中国の農民だけでなく、モンゴルやチベットや満洲やウイグルなどという、もともと中国ではなかったところも含めた領土の中心ということです。決して食べ物がたくさん取れるわけでもなく、まわりが豊かでもなく、水源を見ていただいたらわかるように、非常に人工的で、すべてを輸入しないと生活できない街なんです。中国は本当は南のほうが豊かですよね。今でも長江(ちょうこう)(揚子江というのはじつは長江のごく下流の一部分の名前です)流域のほうがよっぽど気候がよくて美味しいものが取れます。料理でも上海料理や広東料理のほうが豊かですけれど、北京はそういうわけで、軍事的な重要性がある。
後半では、中国の都市というのは一体どんなものかという、もっと古い歴史の話を用意しました。私の夫が岡田英弘といいまして、中国の歴史の専門家で、その話が非常に面白いと私は思うので、ちょっと紹介して、あとでまた北京の話に戻ります。
中国文明が黄河の流域の洛陽盆地に誕生したのは、この地方の生産力が高かったからではなく、黄河がむしろ交通の障碍(しょうがい)だったからです。黄河の水源はチベット高原ですが、山にぶつかりながらクネクネ曲がって流れ、洛陽盆地の西では急流が黄土を削り続けて、両岸は断崖絶壁で渡れません。黄土が溶けて黄色く見えるから黄河と呼ばれるのです。
一方、洛陽盆地から東へ200km行った開封市を過ぎると、大平原に出て流速が落ち、多量の黄土が河底に沈澱します。黄河はしょっちゅう氾濫し、北京から淮河まで全部が下流だったので「九河」と呼ばれました。泰山のある山東半島だけ高台で、街ができました。
洛陽から開封にいたる200㎞だけ、黄河が南北に渡河できたので、中国文明がこの地に誕生したのです。黄河の北は東北アジア、北アジア、中央アジアに、朝鮮半島、日本、モンゴル高原などへ馬で行ける。南は、東シナ海、南シナ海、インド洋へ河沿いに船で行ける。それで、中国の交通を「南船北馬」といいました。洛陽盆地は文明の十字路でした。