2009年度 世田谷市民大学 連続講義


「現代アジア都市の肖像」

第9回 宮脇先生 6月24日 6/9
遊牧民と農耕民が交わる首都:北京
中国の城郭都市の基本的な形は、四面が東西南北に面した正方形で、4つの面それぞれに門を開く。南が正面です。全ての門には丈夫な扉がついていて、日没とともに閉じ、日の出とともに開く。江戸の木戸も同じですけど、これは安全のためです。夜ウロウロしていたら、とりあえず捕まえて牢屋に入れる。明朝になってから調べる。城壁は中国を外の「四夷」の世界から区別する最も重要な境界でした。
『周礼(しゅらい)』「考工記(こうこうき)」は、さらに古い時代のこととして、首都の城壁で囲まれた内側の中央にある王宮を、「左祖(さそ)、右社(うしゃ)、前朝(ぜんちょう)、後市(こうし)」と表現しています。つまり王宮の南側に「朝廷」、北側に「市場」があり、それから王宮の南の正門の東には「祖」、西に「社」、つまり悪霊が入ってこないための門がありました。朝廷で儀式をしてから市場を開いて、税金を1割納めて交易をする。残ったものは街の中の倉庫に入れる。これが中国の街の原形で、いろんな人たちが出会う、人工的な場所だったわけです。

6.元、明、清の城壁と現在の北京市
さて北京市に話を戻しましょう。元代の大都は、城壁の内側の北半分には建物がありませんでした。冬に遊牧民が戻ると、皇帝は宮殿に入りますが、家来たちは決められた区画にテントを張って暮らしたわけです。それで明代に北京が首都になったとき、北方三分の一が放棄されて、城壁は南に移動しました。
1636年に万里の長城の北の瀋陽で建国した清が、1644年、明が反乱で滅びたあと、北京に入城しました。このとき、明代に北京に住んでいた漢人は外城に追い出されて、内城は満洲人の官舎街になりました。これが「胡同(フートン)」と呼ばれるものです。胡同という言葉はモンゴル語の「グドゥム」(巷)から来ています。
現在の地下鉄2号線の内側がもとの内城で、天安門が内城の一番南の南門です。ここから南を外城といい、天壇公園や北京駅あたりは漢人の商業区でした。中華人民共和国になってから城壁はすべて取り払われましたが、内城の中にはさらに城壁がありました。
内城の真ん中に紅色の城壁があり、その中が皇城でした。南北に伸びた皇城の中央に紫禁城という、皇帝の居所と朝廷がありました。今故宮博物院になっているところです。紫禁城の西側、今の北海公園や、共産党の高級幹部が住む中南海は、もとの皇城の中で、内務府の役人、皇帝の使用人、宦官たちが住んでいたところです。