2009年度 世田谷市民大学 連続講義


「現代アジア都市の肖像」

第10回 宮脇先生 7月1日 1/9
移動僧院から社会主義建設へ:ウランバートル
宮脇淳子です。今日はモンゴルの首都ウランバートルの話をいたします。
前回北京にいらしたことがありますかというと結構な人数が手をお挙げになったので、今日も伺いますが、ウランバートルにいらしたことある方いらっしゃいますか?お一人です。今日は圧倒的に少ない。さて、私は歴史学者なので、ウランバートルの歴史の話をまずしようと思っています。おつきあい下さい。

モンゴルは意外と日本に近いところにあります。ウランバートルに飛行機で行くとすると、最短距離は北朝鮮上空を飛ぶことですけど、もちろん通れないので、南まわり、上海上空を通っても、4時間半で行けます。韓国のソウルからは、日本よりもはるかに多く飛んでいます。ウランバートルには韓国人がどんどん増えているし、モンゴル人の労働者もたくさん韓国で働いています。日本との関係より、韓国が密接なのは歴史的な理由がありまして、実は朝鮮半島はフビライ・ハーンの時代にモンゴルの領土になり、150年間モンゴルの統治を受けました。日本への蒙古襲来の前、朝鮮半島はモンゴル軍に6回蹂躙され、その後、フビライの娘に高麗王の息子が婿入りして、生まれた男の子が次の高麗王になる。その息子もまた元朝皇帝に婿入り、ということで、高麗王の母方はずっとモンゴル人で、朝鮮半島は非常にモンゴルと縁が深い。血も繋がっているし、言葉も似た単語があるんです。アジアからロシアまでで、モンゴルの血が全然入らなかったのは日本くらいです。
モンゴルの緯度ですけれど、意外と南にあります。シベリアより南です。でも、モンゴルは内陸なので寒いんです。夏冬の温度差が非常に大きく、昼夜の温度差も大きい。例えば真夏だと、昼間は35℃くらいに上がるんですけれど、夜は10℃に下がる。それから、真冬は、普通は零下20℃とか零下30℃とかですが、零下50℃になることもある。
草原の境界の話を先にしますと、日本のように山の分水嶺は境界ではなくて、山の両側が一つの単位です。河も境界ではなく、河の両岸が一つの単位です。河は凍るので行き来が出来るし、水を中心に遊牧するからです。だから、ノモンハン事件は、日本人はハルハ河を国境だと思ったけれども、モンゴル人は、ハルハ河の両岸が一つの単位だと主張した。それで互いに境界侵犯したと考えたのが、国境紛争の最も大きな原因だったんです。

モンゴル国の外側にもモンゴル人が住んでいます。今、中国内モンゴル自治区になっている大興安嶺山脈の東の麓まではモンゴル草原で、その東の平野が満洲でした。満洲のほうが中国東北部より古い名前です。満洲に省が置かれたのは、日露戦争後の1907年で、このあと中国内地と同じ行政になったのです。1912年に清朝が崩壊して満洲国ができる背景については、私が『世界史のなかの満洲帝国』(PHP新書)で書いていますが、内モンゴル自治区の境界線を決めたのは、満洲国の日本人官吏でした。かつては自治区の境界線よりずっと東までモンゴル草原だったのですが、満洲国時代すでに農地になっていたところは草原に戻せないので、なるべく遊牧地を残すために興安省を作りました。興安東省、興安北省、興安南省、興安西省と囲って、草原でこれ以上農業をさせないように特殊行政区域にした。これが生き残って中華人民共和国の内モンゴル自治区になったんです。