2009年度 世田谷市民大学 連続講義


「現代アジア都市の肖像」

第10回 宮脇先生 7月1日 4/9
移動僧院から社会主義建設へ:ウランバートル
2.モンゴル帝国の首都 カラコルム
カラコルムについては、ヨーロッパ人宣教師が残した史料があります。立派な中国式の宮殿が建ち、その真ん中に、フランス人親方が作った四種類の違うお酒を出す銀細工の木が置いてあった。ここで宴会をして、お酒は飲み放題だった、と書いてあります。でも、金も銀も真珠も、何もかも持ち運びが出来るので、全部消えてなくなった。
つまり、街は遊牧民の君主にとっては、倉庫があって、外国から来た使節をおどかす装置があって、臣下を集めて宴会するためのものだったのです。君主は、一年の大部分をカラコルムから半日あるいは数日の距離にある草原に、立派なテントを張って暮らしました。首都カラコルムには、中国から連れてきた職人と商人、ヨーロッパからきた商人、外交官のための家、キリスト教教会、イスラム教モスク、仏教寺院、道教寺院、それから、取引のための市場があった、と書いてあります。職人や商人は毎日、いろんな物を草原のテントに運んでいたわけです。ケータリング・サービスもあったでしょうね。

3.首都がウランバートルに移動
首都がカラコルムからウランバートルに移ったのは、仏教との関係と、17世紀にロシアがシベリアまで進出したからです。さっき高麗王のお母さんがモンゴル人だったといましたが、実はロシアのイワン雷帝の血筋も、母方はずっとモンゴルのお姫様で、父方がルーシの貴族でした。だから、モンゴルの支配下で代官になってライバルを蹴落として、権力を握ったんです。ロシア史を見ると、皇帝のまわりに遊牧民出身の貴族がいっぱいいます。なので、ソ連が崩壊したとき、ウクライナ人は「あいつらは一皮むけばタタールだ」と言ってロシアから分かれた。タタールは、ロシア語でモンゴルの意味なんです。今のモンゴル人は、モンゴル帝国の後裔のほんの一部、故郷に残った人たちなんですね。