2009年度 世田谷市民大学 連続講義


「現代アジア都市の肖像」

第10回 宮脇先生 7月1日 7/9
移動僧院から社会主義建設へ:ウランバートル

1930年代初頭のウランバートルの写真を見ると、低い屋根の商店が並んでいて、買い物にきた遊牧民たちが歩いたり馬に乗ったりしています。二階建てはロシア商館です。

6.日本人抑留者による首都建設とソ連援助のアパート群
現代の話に入りましょう。ウランバートル市中央には、革命の英雄の名前を付けたスフ・バートル広場があり、その周りに政府庁舎や国立図書館やオペラ座や国立大学があります。これらはすべて、日本人捕虜がレンガを焼いて積んだものです。
モンゴル人民共和国は、1939年、日本軍とノモンハン事件(ハルハ河戦争)を戦って、国境侵犯されたのに賠償してもらっていないと思っていたので、1945年8月9日のソ連に続いて10日に参戦し、スターリンが日本人捕虜をシベリアに連行するとき、配分を受けたんです。モンゴルは最初3万人欲しいとかいっていたんですが、モンゴル人は遊牧をしていて自分の家族の分だけ作って生きていたので、一度に多くの服を用意するなんて出来なかったんです。食事を整然と出すこともできなかったの。だから日本人抑留者は本当にひどい目にあった。とにかく寒かったんですね。手袋がない、靴下がない、靴がない、外套がない。とてもこれ以上は食べるものもない、ということで、1万2000人でストップした。
日本人全員が引き揚げたのは1947年10月で、2年間で約1600人が死亡し、日本人墓地に葬られました。モンゴル人民共和国と日本は、1972年、中国とよりも前に国交樹立したのですが、軍医だった春日行雄さんなどはずっと墓参を続けて、日本人墓地を整理し、「区画の外にも埋めた」と地図も作って、モンゴルが民主化した後で、遺体を掘り出したんです。なんせ凍土でしょ。穴を掘るのが大変だったから、前の人の足の上に次の人の頭を重ねて一列に埋めてあったそうです。現地で鉄板の上に木を組んで油をかけて焼いて、お骨にして持ち帰りました。日本人墓地は今は友好公園になって、大きな仏像が建っています。