2009年度 世田谷市民大学 連続講義


「現代アジア都市の肖像」

第11回 土佐先生 7月8日 4/10
純粋都市への欲望と挫折:ソウル
そして、それが今のソウルと一番違うのは、何よりも王都、王の住む都として存在したという点です。そのとき都市デザインを決定する大切な原理は、儒教的秩序、別な言葉でいうと礼的位階といわれるものです。要するに、儒教というのは礼というものを一つの尺度にして社会秩序を造っていくわけです。目下のものが目上のものに対する礼、そういうものが積み重なっていって、一番上に王がいるというものですね。その王を表象するための空間として都があるということです。ですから、今のように、都市というのは商業が栄えているというのが当然というのは、決して伝統的な都市には当てはまらない考え方で、むしろ王都というのは商業を排除したところに成り立つ空間です。

これはソウルの昔の地図です。客観的な地図というよりは、ものごとの重要性に従って描かれているので、王宮は非常に大きく描かれていますけれども、実際はこんなに大きいものではありません。これがソウルの全体ということですね。先ほどいいました、礼的秩序、礼的位階から見た場合、一番礼度の高いのは玉座、さらに王の住む景福宮があって、それを支える城壁があって、さらに周りの空間が広がっていると。それで、王宮から離れれば離れるほど、礼度というのは下がっていくという、こういう形に作られたのが伝統的な王都というものですよね。

当時も実はソウルといういい方はなされていたようですけれども、正式には漢城(ハンソン)と呼ばれました。余談ではありますけれども、もともと何故ソウルというか。これは漢字語ではありません。固有語なんですけれども、その起源にはいろいろな説があって、よくわかっていないんです。おそらく都を意味するソボルという言葉からきたのではないかといわれていますけれども、未だにソウルの語源に関しては定説がありません。そこら辺が不思議なところでもあります。
それが日本によって植民地支配された1910年から1945年の間は名前が変わります。当時は日本語読みで京城(けいじょう)といっておりました。日本はここの開発にかなり力を入れました。今日のソウルの近代的な発展のルーツがどこにあるかというと、その1つはこの植民地時代にあります。日本はここを近代的な都市にするために莫大な投資を行い、そして近代的な都市計画に基づいて町造りをやりました。