2009年度 世田谷市民大学 連続講義


「現代アジア都市の肖像」

第11回 土佐先生 7月8日 6/10
純粋都市への欲望と挫折:ソウル
これはソウルの郊外です。郊外のほうにいくと、まだ昔ながらの藁葺きの家がたくさん残っていました。ですから、日本は近代化の一つの礎は造りましたけども、国全体でみたときはその及ぶ影響力というのは非常に限定的なものだったということが、こういう風景からもいえると思います。
本当のソウルの発展が始まったのは、やはり解放後です。大韓民国が成立したのは1948年でしたけれども、その後はすぐ安定した軌道にのるというよりは、いろいろな形の混乱が続いて、国家主導の開発が軌道にのるのが1960年代後半からです。それに従って、先ほどもお話しした「漢江の奇跡」として結実し、ソウルは南へ南へと発展を続けていくということです。
今日は北朝鮮の話はできませんけれども、実は1970年代くらいまでは、韓国より北朝鮮のほうがむしろ発展していたと言われます。今では南と北では圧倒的な力の差がありますけれども、植民地時代はむしろ重工業の拠点は北の方にあったので、解放を迎えた頃はむしろ北の方がいろんな面で有利な条件を持っていました。それが逆転していったのが1970年代くらいだった言われています。
韓国というのはむしろ農業社会でした。60年代まではまだ3分の2が農村に住み、40%くらいはまだ絶対的な貧困層にあるという、そういう社会でした。それが60年代から始まった、いわゆる開発独裁の力によって、80年代になりますと逆転するわけです。3分の2が農村に住んでいたのが、3分の2が都市に住むようになる。50%以上は中産層といわれる人々が占めるようになり、それが韓国、ソウルの発展を支えることになります。それに従って、先ほど写真にはまだ色濃く残っていた伝統的な色彩というのはどんどん消えていって、無国籍的なライフスタイルというものが一般化していくわけです。
解放後のソウルの発展を見るため、風景の中で二つほど、典型的といいますか、象徴的な事例を紹介します。
一つは先ほどから何度も出てます、朝鮮総督府です。解放したらすぐ光化門という王宮の正門が元に戻されます。これは朝鮮総督府が作られたときに撤去されましたけれども、日本の知識人達の働きかけもあって、完全に打ち壊すことは避けられて、移動だけされました。解放したらまずそれをなおしたいということで、光化門が元の位置に戻されました。20年くらいはそういう状態が続きましたが、韓国が豊かになってくると、やはり総督府を壊したいという欲求が高まってくる。それでついに壊してしまった。ですから、今王宮に行ってもこれは残っていません。
1997年、金泳三大統領の時代に、象徴的な事業として解体を行いました。莫大なお金がかかりました。韓国の中にも反対する人はいました。そんなことにお金を使うこと自体がばかげているし、朝鮮総督府によって朝鮮が支配されたという歴史そのものも変えることはできないわけですから、むしろそれを負の歴史遺産として残すべきだと、そういう主張もありました。しかし、圧倒的多数は喝采を叫んだわけですよね。ここら辺が同じ植民地支配をうけても、台湾と韓国が違うとよく言われる根拠になっているわけです。