2010年度 世田谷市民大学 連続講義


「アジアの家族」

第2回 梶原先生 4月21日 1/8
家族の肖像
おはようございます。先週は、家族の輪郭について、全般的な話をさせていただきました。今週は、「家族の肖像」ということでございますので、東南アジアのいくつかの家族の具体的な姿をお話ししたいと思います。
前回、お話ししましたように、家族はいろいろな役割、機能を持っているということですが、きょうは家族の中でも特に政治的な単位というか、政治的な力を持っている家族をいくつか取り上げてみようと思っております。もう一つは、経済的な、政治と経済は場合によってかなりかけ離れていることもありますが、家族という点を考えますと、政治と経済は非常に結び付きやすい場合もありますので、そういう話をさせていただきます。

フィリピンの観光地として有名なセブ島という場所がございます。セブの中心は、島の名前と同じでセブ市という大きな町です。セブ島は、フィリピンの歴史を考えるときに、フィリピンは大体350年間ぐらいスペインの植民地でありましたが、スペイン人がフィリピンに到着した、その最初の地点が、セブ市のすぐそばの対岸にあるマクタン島という島でした。そのため、最初のスペイン人植民地が開かれた町でもあります。
セブ市のこれまでの約100年間の政治の歴史を見ますと、その政治の中心を占めた家族がございます。それが、オスメーニャ家です。そのオスメーニャ家というのは、中国系のメスティーソというとらえ方をされる血統です。メスティーソとか、メスティーザというのはよくお聞きになる言葉だとは思いますが、いわゆる混血を表しています。ですから、中国系の、かつてフィリピンに来た華人とスペイン系の血が入った、そしてもちろんどちらかがフィリピン人の血も入っていますが、そういう家族だったわけです。
このオスメーニャの政治的な影響力が高まったのは、この中で19世紀の後半に生まれた、セルヒオ・オスメーニャ以降です。彼は、スペイン植民地時代に弁護士の資格を取って、地方の弁護士でしたが、同時に家業としてさまざまな商売をしたり、あるいはその商売で得たお金でセブの広大な農地を買って、アシエンダと呼ばれる広い農園を所有して、それを小作人に貸して地代をとるという地主階級でもあったわけです。コモンウェルス時代の最初の大統領、マニュエル・ケソン時代にセルヒオ・オスメーニャはそのナンバー2、副大統領でした。やがて、ご存じのように日本軍がフィリピンに攻め入って、そしてマッカーサーがフィリピンの総司令官だったわけですが、オーストラリアに逃げるわけです。マニュエル・ケソンもそのときに一緒に飛行機でオーストラリアに脱出します。ケソンは肺結核を患っておりまして、フィリピンから出て、オーストラリアからアメリカに確か行ったと思うのですが、そこで1944年に亡くなっております。オスメーニャも外国に逃げていたわけですが、ケソンの跡を継いで、コモンウェルス時代の第2代の大統領になります。ただ、戦後、独立したフィリピン共和国は1946年に大統領選挙を行いますが、そのときにはもうオスメーニャは負けてしまいます。このセルヒオの息子、セルヒンが政治的な家系を継ぐということで、下院議員に当選したり、あるいは上院議員にその後なって、そして大統領選挙にも出ます。マルコスと激しく敵対して、マルコスには勝てなかったわけですが、そういうキャリアを持っています。