2010年度 世田谷市民大学 連続講義


「アジアの家族」

第2回 梶原先生 4月21日 5/8
家族の肖像
つぎはタイに転じましょう。1人は実際に、わたしが若いときにタイでフィールドワークをやってお付き合いのあった方なのですが、もう1人は、もう1家族はまったくご縁がないのですが。
まずタイの王様です。ご縁のないほうです。タイの今の王様は、プミポン・アドゥンヤデートという王様です。非常に英明な、聡明な名君と評判の高い方でございます。今のタイの王朝は、いろんな呼び名がありますが、場所の名前をつけてバンコック王朝と呼ばれたり、最初にこの王朝を開いた人の名前をつけてチャクリ王朝と呼ばれたり、あるいはこの王朝全体の名前というのでしょうか、時期を、時代性を表した、ラッタナーコーシン王朝とも呼ばれます。そもそも、アユタヤにタイの都があったわけですが、アユタヤは何回もビルマとの戦争によってビルマ軍に侵入されて、最後は炎上をしてしまうわけです。その後、バンコックの対岸にトンブリという場所が今でもありますが、トンブリに王朝を開いたのがタクシン王でした。ところが、タクシン王は優秀な人だったらしいのですが、あるときに精神的なバランスを欠いたとされて、その部下だったチャクリがタクシンを追放して、対岸のバンコックに王朝を開いたのが、今の王朝の始まりです。

今、話題になっている、タイの政治デモの主人公の一人が、偶然が同じ名前です。係累ではない、まったく無関係の人ですが、昔の英雄の名前をつけたのでしょう。タクシン元首相は、現国王と緊張関係にあると言われています。まさに、その歴史のドラマを裏返したような話があるのですが、プミポン国王は次男でしたため、自分は王様になるおつもりはなかったようです。当時、スイスの学校に行って、今でも作曲や演奏で有名な方ですが、ジャズのサクソフォンを吹かれたり、自由な生活を送ってらしたのですが、お兄さんの当時の国王が謎の死を遂げられたのです。そのため急に、18歳くらいでスイスから呼び戻されて、王位に就かれることとなりました。
プミポン国王が結婚なさった相手が、シリキット王妃。タイの大変聡明で麗しい方として有名な王妃様で、その間に皇太子が1人と王女が3人生まれました。長女はもうすでに亡くなっておりますが、この方は才媛の誉れ高い方だったのですが、アメリカに留学して、アフリカ系アメリカ人と結婚して、王族の籍から離脱するというようなことがありました。次女のシリントン王女は、この方は大変聡明で、国民的人気が一番ある方で、現在でもご活躍です。彼女は考古学で修士号を取ってらっしゃいます。三女は明るい方で、国民的人気がおありです。
ワチラロンコン皇太子がいらっしゃいますが、タイ人の間には現国王があまりに名君であるために次代を心配する声もあります。当たり前のことですが、王族の影響力というのはまだ強いものがありますし、政治的な調停者としてもプミポン国王は活躍をこれまではなさったわけです。そういうことから考えると、この跡継ぎ問題というのは、これから10年、20年、タイがどういう方向に動いていくかということに大きくかかわっています。あたりまえかもしれませんが、まさに国家の命運と結びついているのがタイの国王一家といえましょう。

その王様とも関係のある人なのですが、たまたまわたしが今から35年ぐらい前に知り合ったのがニマンヘイミン氏でした。チェンマイの銀行家です。ランナータイバンクという銀行があって、そこの頭取でした。地方の名望家、あるいは財産家ですから、チェンマイのホテルのオーナーであったり、ほかの関連産業のオーナーであったりしたのですが、当時の家長のクライシーさんはタイの古い陶器の研究、収集家でもありました。
どうしたわけかかわいがってくださいました。ちょうどわたしがタイにいたときに、彼の息子がアメリカの大学を出て、野村證券で2年間インターンシップをしていたわけです。ちょうど、わたしと同い年の息子の代わりというわけではないのでしょうが、そんなこともあったかもしれません。クライシー・ニマンヘミンという人は、大学はハーバード卒です。ところが彼のおじいさんというのは中国からタイに移住してきた華人です。天秤棒でそばを売っていたとクライシー氏は言っていました。そのおじいさんはもう亡くなっているので、わたしは残念ながら会ったことはありませんが。2代たつと、出世譚というか、孫がハーバードを出るわけです。天秤棒でおそばを売っていた人のお孫さんはハーバードを出て、もちろん息子も1人はハーバードで、その後、今からもう6~7年前ですが、タイの大蔵大臣をやっていました。