2010年度 世田谷市民大学 連続講義


「アジアの家族」

第2回 梶原先生 4月21日 7/8
家族の肖像
そうすると、これはやはり家族というものに対して、われわれが考えている家族とアメリカ人が家族として考えている家族と、相当違うのではなかろうかと。先程の商家の婿養子のように、経済的な財産継承とか、利益ということがあってはじめて養子制度が発達したのでしょうが、われわれがイデオロギー的というのでしょうか、無意識のうちに持っている考え方というのは、やはり人工的でない、自然に生まれてきたというか、ごくごく普通に家族というものがある、それが血によってつながっている、そういう家族に対して、それは当たり前ではもちろんあるのですが、当然のこととするというか、自明なものとして家族をとらえる。ですから、そういう意味では、家族を人工的に造り上げるというより、あるがままの所与として(場合によっては宿命として)とらえてきたのかもしれません。ある意味では恵まれた社会なのかもしれません。

家族に対する、われわれの感受性とどうもちょっと似ているかなと思うのは、国民意識とか、愛国心です。今は、愛国心はちゃんとつけなきゃいけないとか、教育でそういうことを教えなきゃいけないという声が強くはなっていますが、例えば、われわれはあまり意識的に日の丸を揚げたり、下げたりしないわけです。旗日でも日の丸を掲げているお家はほとんどないですし、朝、晩、国旗を揚げて、下げて、国旗のほうへ向かっておじぎをするということも、ゼロではないけれどあまりしない。ということになりますと、国に対する考え方も、やはり自然なものなのでしょう。国をつくり上げる人工物として、常に国を意識して、ありとあらゆる瞬間を使って、国旗とか、国歌とかというものをしょっちゅう聞いてないと確認できないというよりは、もっと自然なものとして当たり前で、なにか自分とあまり境目がなしに存在しているような、そういうものとして、日本人の多くは国家を考えているのではないでしょうか。家族や国家を意識的に考えたり、それを強要されることは、実はあまり幸せではないような気がします。

ところが、家族を取り巻く環境が相当、いろいろ変わってきている。これまで、天然、自然、所与のものとして、われわれがあまり心配しないでいいような家族を取り巻く状況というのが、かなり根本的なところで変わってきたと。生活のスタイルが変わったこともあるでしょうし、それに伴って、時間の使い方とか、そういうことも変わってきた。それから社会経済的にも、かつての家という一つの経済的ユニットがあまり揺らぐことがない状態とはよほど、今の状況は変わってきた。女性と男性の関係も変わってきたということで、今、むしろ、私に何かビジョンがあるわけではないのですが、家族を意識せざるを得ない。家族というものについて新しい試みをしたり、それからわれわれが何か考えなければいけない、そういう切迫感というか、切実感がだいぶ増えてきているのではなかろうかと。これまで意識しないで済んでいたものが、あらためて家族について考えなきゃいけない。考えないと、家族というものが若干不安になってくると。言うまでもなくですが、そういう時代をわれわれが生きているのではなかろうかと思います。
ですから、この間ちょっと申し上げた、家族の団らんとか、家族の平穏とか、家族の平和とか、こうしたものの前提が少し揺らぎ始めていることは事実だろうと。そういう、意識化をするとか、家族というものをどんなものかもう一度とらえ直すときに、どのくらいお役に立つか分かりませんが、これから、あと5人の講師の方がいらっしゃいますが、先週申しましたように、家族のあり方、あるいは類型、種類、こうしたものが実は、われわれが思ってた以上に複雑多様で、奇想天外まではいかないですが、普通の日本の家族という前提で、われわれが家族を考えていると、ある領域の中にとどまってしまいます。家族の範囲というのは、途方もなく大きい。そこにまた一つ、今後のわれわれにとっての家族の可能性というのでしょうか、新しい可能性が見つかるかもしれない。こういうことを考えています。