2010年度 世田谷市民大学 連続講義


「アジアの家族」

第2回 梶原先生 4月21日 8/8
家族の肖像
アメリカの複合家族のように、これまでのいろいろな結婚の経過を背景にした新しい家族が作られるということを考えてきますと、同じことになりますが、家族というのが当たり前のものとして、自然に存在するものとして考えるということは、家族がインビーイングな状態、そのままにあるという状態をわれわれは想定していたのですが、少しアメリカ流なのかもしれないけれど、これからわれわれ家族ということをあらためて考えるとか、新しい家族像を模索するということは、家族を作っていくというか、インメイキングで家族に対応していくというのでしょうか、そういうことがより必要になってきたのではないかと。
これは、果たしてうれしいことなのか、どうか、よく分かりません。つまり、何も考えないというのも決して楽なことではないのかもしれませんが、われわれが社会の中でなにか空気のように生きていけるのだったら、そのほうが楽かもしれないですね。つまりインビーイングな状態でいつまでもいたいという気持ちはあるのですが、そうは行かなくなってきて、つまり非常に単純なことを、家族以外のことでもそうですが、現代社会というのは、何かこちらに迫ってくるようなつらさがあります。日本社会はそれほど緊張が高くないと思いますし、のほほんとしても生きているという意味では非常によくできた社会ですが、そろそろ考えなきゃいけない、社会を作らなきゃいけないという厄介な社会になりつつあるというか、そういう社会に変わってきたのではなかろうかという気がしております。あくまでも一つの例かもしれませんが、あらためて家族を考えると、こういうことまでいちいち慎重にとらえ直す、考え直さなきゃいけないのかと。そういう社会が来ているんだなという気がいたします。
とは言っても、垣間見るだけですが、中国社会で生きていく難しさを考えますと、あるいはフィリピン社会で一人前にやっていくというのは、油断も隙もならないですね。フィリピン人がすばしっこいという、そういう意味ではなくて。社会で、先ほど申し上げましたように、何一つ定かな、確かなものがない。あるいは、相対的に、日本社会と比べると、確かなものが少ない。そうなりますと、人間関係も含めて、あらゆるバランスのとれた注意をはらっていないと、立派な人間にはなれないという、試練を与えられるような社会のような気がしているのです。フィリピン社会、中国社会はもっと政治的な意味でいろんな注意を払ってないと、倒されたり、失脚したりということがある。つまり、社会の中である程度活躍する人間にとっては、はたで見ていますと、そういうことに非常に注意が必要な社会。それに比べると、のほほんとしていられる、この日本社会は楽でいいのですが、そういう社会においても、やや大変な問題が迫りつつあるのではないかと、そういうふうに思いまして、結論にもなりませんが、2回にわたって、家族の肖像イントロダクション、概説のようなことをさせていただきました。今後のさまざまなお話で、さらにいろいろインスピレーションをお持ちになれるかと思いますので、このシリーズ、残りの回もよろしくお願いいたします。どうも、大変失礼いたしました。