2010年度 世田谷市民大学 連続講義


「アジアの家族」

第8回 辻村先生 6月9日 3/5
古代エジプトの家族像 アクナテン王の反乱
エジプトが西アジアに進出して版図を拡大するとミタンニだけでなく、西アジアの国々から友好関係を維持するために多くの王女たちがファラオの嫁として送られてきました。王は異国の王女を含めて複数の女性を妻としましたが、正式の妻はエジプトの女性だったように思います。といいますのは、エジプト王室は絶対に自国の王女は他国に送らなかったからです。それは王権の血が自国の王女たちに流れていると信じていたからではないでしょうか。ところが、実はここで革命的なことが起こります。ティも、ネフェルティティもエジプト人ではあっても王室出身者ではないのです。王室とは直接の関係を持たない人の娘でした。つまり、ティの父親は地方都市アクミームの神官、ユヤという父親の名前まで分かっています。王妃は、王の姉妹あるいは王室の中から選ぶというそれまでの慣行を無視して、2人のファラオは恋愛相手を正妃としました。
太陽神アテンの信仰も、実はアメンホテプⅢ世がテーベのアメン神官団に対抗するためにとった策の一つでした。王権とアメン神官団との緊張は深刻化していくばかりでした。アメン大司祭を誰にするか、そして王妃を誰にするかについて両者は策をめぐらし、暗闘を繰り広げていたのです。息子であるアクナテン王とネフェルティティによる新都建設は王権側の勝利でした。二人は、神官団に邪魔をされない場所で、新しい宗教と共に新しい夫婦、新しい家族の形を求めたのです。
太陽神のアテンを祭る王と王妃、あるいは娘を加えた王の家族の姿を描いた浮き彫りがアマルナからは数多く発見されています。二人が口づけを交わす場面が描かれています。それまでならば王の不可侵性を侵すものとして非難されたに違いない、こうした行為も躊躇うことはありませんでした。ネフェルティティとその義母に当たるティ王女を見ていただきましょう。両方ともドイツのベルリン博物館の収蔵品です。家族が描かれたものもあります。彼らには6人の娘がおりました。千手観音のように何本もの手で表現される太陽神アテンに守られたアクナテン一家の幸せな生活が描かれています。しかし、やがて病に冒されたアクナテン王はネフェルティティを廃し、長女のメリタテンに「偉大なる王妃」という称号を与えます。さらには3番目の娘、アンケセパーテンとも結婚します。彼女はアクナテン王の死後に、アクナテンの年の離れた弟でありましたツタンカーメンの王妃となります。彼らは再びテーベに都を移し、アクナテン王による改革の時代は終わったのでした。ネフェルティティは、ツタンカーメンがファラオの座に就いて2年目に、37歳という若さでこの世を去りました。王家の女性たちには近親結婚が多く、それは王の神聖な系譜を守るためでした。そして、それに対するティとネフェルティティの闘いは宗教改革の挫折と同じく、その後の王家の家族のあり方を根本から変えるには至りませんでした。
では、この王妃たちと同じ時代に一般社会ではどのような家族生活が営まれていたのでしょうか。テーベにある労働者の町、デル・エル=メディーナの記録によると、いずれも一家族に1人の妻しか記録されていません。一夫多妻を推測させる資料もないわけではないけれど大変少ないことから、一夫一婦の単婚家族が一般的だったのではないかと言われています。王朝時代には結婚をすることを「家庭を築く」、「家庭に入る」、「一緒に暮らす」「○○を妻として得る」と表現していました。トトメスⅢ世の頃の記録に、こんな男の文章が残っています。「私がつかまえて奴隷とした男に、私の妹の娘を妻として与える」と。当時、奴隷というのは、一生解放されない非常に過酷な労働を強いられる存在......というふうでもなかったのですね。自分の姪を嫁にやるというのですから。また、こんな文章も残っています。「夫が買ってきた女奴隷の産んだ3人の子どもたちを、夫亡き後、妻が育てた」。恐らく子どものできなかった夫婦だったのでしょう。妻は女奴隷に生ませた子供うちの一番上の娘を、馬蹄頭をしている自分の弟の嫁にしています。このケースでは、父親が亡くなっているので、育ての親である母親が結婚の許諾を与えているのですが、大概は父親が子どもたちの結婚の許しを与えているようです。