2011年度 世田谷市民大学 連続講義


「アジアの幸せ」

第1回 梶原先生 4月13日 1/10
アジアの苦しみ、アジアの幸せ
ご紹介にあずかりました梶原でございます。今年は「幸せ」ということで、今年度も12回にわたりまして、われわれ7人で講座を組ませていただきました。国士舘大学に、アジア・日本研究センターという、大学全体の研究と広報も含めて、アジア研究を中心にした研究センターがございます。そして、今ご紹介のあった、今年で10年目になります新しい学部であります21世紀アジア学部、この2つの大学の機関が連携して、こうした企画を立てさせていただきました。
どうして「アジアの幸せ」というような企画を作ったかということを、簡単に始めにご紹介させていただきます。
アジア全体とまではまだ申せませんけれども、アジアのかなり多くの国々、あるいは地域において、かつてないほどの経済発展が引き続き展開しております。従来のアジアのイメージと申しますと、これもよくご承知のことと思いますけれども、例えば、アジア的専制という言葉がございました。ご存知のように、アジアの政治体系というものは、ヨーロッパとかアメリカと違って、いわゆる民主主義、そうしたものには至らないと。あるいは、もっと前の段階で非常に強大な権力があって、それが社会を支配しているというイメージのアジア社会というのが、長い間、近代の学問の研究が始まって以来語られてきたということがございました。
他の言い方ですと、アジアというものは停滞した社会であるともいわれてきました。ヨーロッパ社会というのは、新しい技術の開発が生じ、それに伴って社会が変化していく、発展していくという、社会進化的なイメージがあったわけです。ところがアジア社会というのは、良くも悪くも変わらないと。アジアというものは、何か内燃機関のない社会のようなもので、新しい変化が生まれにくい社会であると。いつまでたっても、同じだということでも語られてまいりました。
例えば、社会科学において、マルクスにしてもそうですし、あるいは、マルクスよりだいぶ後の人ですけれども、専制の問題を取り上げたウイットフォーゲルにしてもそうですけれども、いずれにしても共通したイメージというのは、アジアというのは、ちょっとどうしようもないと言いますか、困った社会であると。それなりに良さはあるのかもしれないけれども、およそヨーロッパのような発展とか、あるいは開発とか、そうしたイメージとは対極のイメージをもつ社会としてずっと取り上げられてきました。
さて、こうした問題について時代を画す研究として、よくご存知のエドワード・サイードが明らかにしたオリエンタリズムいう指摘がございました。アジアというのは、アジア人自らが、アジア人とは何かとか、アジアとは何かということを語らない社会であると。ヨーロッパ人がもっぱらアジアについて代弁して、ヨーロッパ人がアジアを明らかにする。つまりアジアというのは主体になりえない。いつも、客体というか、あるいは被害者の「被」ですね、こうむる、かぶるほうの人間社会として描かれてきたという経緯がございます。
わたくしがアジアで文化人類学のささやかな研究を始めた40年近く前には、アジアを研究するのは二流の人間と言われたわけです。まともな人間だったらアメリカの研究をしろと。あるいは、ヨーロッパの研究をすると。ヨーロッパのどんなに小さいささやかなところでも、アジアの研究をするよりははるかに気がきいているというか、偉いというか。二級市民のような気持ちでアジアの研究を始めたような記憶もございます。