2011年度 世田谷市民大学 連続講義


「アジアの幸せ」

第1回 梶原先生 4月13日 10/10
アジアの苦しみ、アジアの幸せ
先日、1月に用事があって、インドのニュー・デリーに行ってまいりました。わたしはニュー・デリーは何回か行ったことがあるんですけど、いつも時間がなくてオールド・デリーという街をよく見るという機会がなかったんですが、その時にたまたま時間があって、インド人の知り合いが、こちらも大変興味深いので見なさい、ということで連れて行ってもらったんです。
その時に、幸せを感じたというよりは不幸せを感じたんです。だんだんこちらも年を取ってまいりまして、日頃、そんなに運動もしていないという状態で、車が入れないような非常に細い路地、と言っても、人力車というか、輪タクがすれ違うぐらいのことはできる道にいって。ビリヤーニーという食べ物がございますが、その奥にビリヤーニーでは名の知られたレストランがあるということで、昼飯を食べに行きました。地下鉄を降りてからはタクシーでは行けない目的地でした。歩いて行くにはちょっと遠い。輪タクに乗らなきゃいけない。乗せられたのはいいのですが、その狭い、人がたくさんいらっしゃるところで、輪タクは疾走していゆきます。もう容赦なく、相手が来ようとよけない。そのうちに向こうからも来るわけです。そうすると、チキンレースみたいなもので、最後までどっちもよけない。5センチぐらいのところをすれ違う。怖くてしょうがないわけです。輪タクにはつかまるところもあまりついてなくて、それでもつかめそうなところに必死になってつかまって、足踏ん張って。ずっと15分ぐらい我慢してたんですけども、その輪タクのドラーバーに、「速すぎるから、ちょっとゆっくりしてくれ」と言ったら「そんなことはできない」と。
やはり日本の下町の、おそらく昔の人力車を引いてる人もそうでしょうけども、一種の男気というか、あるいは、いなせな気質というものがあって、ノロノロ行くようなことは男がすたる、みたいな話で、まったくゆるめないんですね。相手もそうなんですね。最後の一瞬で、どっちかちょっとずらすぐらいなんですけども、あんまりずらすのは、人がたくさん歩いていますからできないようなところですし。
帰りもまたそれに乗らなきゃいけないんで憂鬱だったんですが、そこはイスラム教の人が多い地域なんで、帰りに乗った時に、向こうからイスラムの貴婦人というかご婦人が2人で立派なイスラム風の衣装で乗ってらして。スピートはすごい。ただ、その2人はつかまりもしていなかったんです。2人で談笑してらっしゃる。カーブなんかでも、わたしは怖いから落ちないように必死につかまってるんですけど、平然と乗ってらっしゃるんです。
そうすると、何が言いたいか自分でもよくわからないんですけれども、その時は「アジアの幸せ」のことはまったく忘れていたんですけども、その時に思いましたのは、体を平然とコントロールできるある種の余地というんでしょうか。そういうことを、別に意図的とか意識してなさっているわけではなくて、それが生活の一部で、そういうスピードとか、そういう道の状況とか、環境とか、ガタガタすることに慣れてらっしゃると言えばそれまでなんですけれども、そういうことを、日本人みんながとは思わないけど、少なくとも、わたしは失ってしまったわけですね。あるいは、元からなかったかもしれません。
そうすると、これも恐ろしいことというか、つまり、もちろん何か頭で考えるとか、そういうことも幸福とか、幸せにとって大事なことでしょうけれども、幸せというものを意識することによる不幸と言いますか、何も考えないで生きているというのは極めて不幸せなのか幸せなのかわからない状態というのも、人間にとってはなかなか幸せなことなのかもしれないですね。
それがさっき申し上げた、人間が考えざるを得ないというか、失楽園の経験で、われわれはやっぱり楽園を追放されてしまったわけで、インドのデリーのご婦人が、楽園を追放されていないのかどうかはわかりませんけれども、それも含めて幸せということをどのくらい考えられるか。つまり、最初に頭で考えるのではなくて、感じるということもあるでしょうし、それから、頭にいかない、体で覚えてるとか、体が動くということの、ある種の知恵だと思うんですが、そういうものをどう現代に生かしていくかということが問題が、日本社会にとっても極めて重要なことかというふうに考えております。