2011年度 世田谷市民大学 連続講義


「アジアの幸せ」

第1回 梶原先生 4月13日 3/10
アジアの苦しみ、アジアの幸せ
たまたま昨年、アジア・日本研究センターの10周年の記念行事というのがありまして、このGNHを提唱しているブータンの中心人物に当たるダショー・カルマ・ウラという方がいらっしゃいます。この方は社会科学者でもあり、また政策策定や、政策の哲学的な基盤を作っているご当人でいらっしゃいますので、そういう方をお呼びして講演をしてもらったらどうかという企画が決まりました。実際にブータンに行ってお話をしてこちらの意図を了解していただいて、日本に来ていただくということになりました。昨年の10月にダショー・カルマ・ウラががいらして、世田谷キャンパスの一室でシンポジウムを行うこととなりました。そうしたことも、今回ここでお話させていただく背景としてございます。
先ほど申し上げましたように、幸せとか幸福について考える、あるいはこれまでどんなことがこの問題について行われてきたか、語られてきたか、書かれてきたかということは、結構幅のある問題であり、コンパクトにお話するのが難しいテーマでもございます。今日は第1回ですので、この問題の背景について、しばらくお話をさせていただいて、そして2回目から、より具体的、現実的なアジアの様々な社会における幸せについて考えると、こういうことを試みたいと思っております。
幸せというのは非常に個人的であり、あるいは相対的であり、幸せを定型的に定めることは非常に難しいわけです。例えばささやかな幸せという表現がありますけれども、ある瞬間に、特になんということもなしにゆったりした気分になったり、あるいはほっとしたり、幸せになるというような幸せもあります。幸せというと必ず出てくるのは、アランの『幸福論』というのがございます。かなりの方がお読みになったことおありになるでしょう。それからセネカも幸せについて書いております。
今回こういうことになりましたので、アランの『幸福論』を改めてパラパラと読み返してみました。アランはいろんなことを言っておりますが、例えばその中で「幸福になるのはいつだって難しいことなのだ」と言っています。「多くの出来事を乗り越えなければならない。大勢の敵と戦わなければならない。しかし、力いっぱい戦った後でなければ負けたと言うな。これはおそらく至上命令である。幸福になろうと欲しなければ絶対に幸福になれない」というようなことを言っております。さらに続けて「不幸になるのはなにも難しくはない。本当に難しいのは幸福になることだ」というふうに、アランは述べております。
アランのある種の哲学的断章というか、アフォリズムに近い、警句に近いような、幸せについての様々な記述は、それなりにある場所を読むとスッと納得がいくこともあるし、今の気分に合っているというようなものではあり、ありがたいものではありますが、実はあんまりよくわからない。よくわからないというか、これで幸せがわかったということでもないわけです。
れはどういうことかと言うと、幸せよりも不幸のほうがイメージとしてはインパクトが強いということがあります。幸せというのはどんなものですかと今伺って、おそらく、なんとなくふわふわっとして漠然と雲の上を漂っているような、そんなイメージしか、なかなかわたしは湧かないわけです。それに対して、不幸とか苦痛というイメージというのは非常にビジュアルに、例えば人間がけがをするとか、苦痛にのたうつとか、それから、非常に悲惨な不幸な目に遭うということは、わりと想像しやすい。われわれの想像力の中で、はっきりと出てくる問題です。あるいは、現実にもそうした姿というのは、目で見られるようなかたちになりやすいということがあります。それに対して幸せというのは、そこまでイメージの喚起力がないかもしれないですね。例えば、若い夫婦が子どもを連れて3人で歩いているのは幸せのイメージかもしれませんけれども、そのへんで終わってしまうということもあるのかもしれません。