2011年度 世田谷市民大学 連続講義


「アジアの幸せ」

第1回 梶原先生 4月13日 4/10
アジアの苦しみ、アジアの幸せ
こうした、アランの『幸福論』を代表とすれば、幸せが個人的なもので相対的なもので、アランに社会性がないという意味ではないんですけれども、ある種の処世訓のようなかたちで幸せが語られるということが了解されます。
これに対して、今回お話する多くの方は、どちらかというと、幸せを集合的にとらえる、あるいは社会的にとらえる、という流れになるかと思っています。先ほどから申し上げているように、幸せを個人的に、あるいは個人の心理としてとらえた場合に、それはそれで豊かな領域が広がってくるわけですが、むしろこれは、例えば文学であるとか、そちらのほうにお任せしたほうがいいのかもしれないですね。それをていねいに拾って、社会史的に、個人的な幸せを、例えば16世紀のフランスのある地方の幸せのあり様を明らかにすることはできるとは思いますが、今回お話するのはどちらかというと、例えばある時代であるとかある社会であるとか、その中での集合表象としての幸せということになるだろうと思います。
アランの幸福論は、すぐ実用的に、その幸福論を勉強してよく読んで、それを実践して実生活に生かすと幸せになるかというと、そんなことはないかもしれません。でも、頑張って一生懸命やればなんでもうまくいくという勝間和代さんのような理論とアランは、決してまったく無縁ではありません。幸せは意外とハウ・トゥーものとして長い間語られてきました。アランのハウ・トゥーと勝間さんのハウ・トゥーとは、だいぶ違うかもしれませんが、まったく繋がっていないわけではないという印象を、アランを読み直して、意外と似ているんだなという気もしております。
日本社会のかたちは、戦前と戦後、太平洋戦争の前と後、これには、断絶があるという説と、実は、戦前の体制がずっと続いているんだという説があります。多少の違いがあるという前提で考えますと、やっぱり戦前・戦中の個人の幸せというのは、そこに国家というものが非常に大きく存在していました。お国のために、あるいは忠君愛国ということもあったかもしれませんし、個人の幸せと国家の幸せというのは、どこかで結びつくようなかたちとして認識されることが、おそらくあっただろう思います。戦後の幸福、社会的幸福というものに、国家がすべて抜けてしまったということではもちろんありませんが、ある時期になると、国家よりは社会というイメージが強く出てきました。
ですから、富国強兵の国家的な方向性と結びついた幸福論から、福祉国家というか、戦後当初は平和国家、平和日本というようなイメージに、幸せと社会の関係性が示されるようになりました。その意味で国家との関連において、個人の幸せは、変質を遂げたのではなかろうかと思います。わたくしも、戦争直後のベビーブーマーですけれども、群馬交響楽団の『ここに泉あり』とか『二十四の瞳』などの映画に代表されるような社会的な文脈の中で、個人の幸せ、個人の生きがいとか感慨というものが表現されるような時期は確かにあったんだろうと思います。
駆け足になりますけれども、その後、ご存知のように1960年のちょっと前から始まった経済成長は、われわれの幸せ、幸福というものを、集合表象的なイメージとして、やはり所得倍増論に象徴された気配があります。やはりあの時代においては、個人の幸せと、それから社会の幸せというものが、所得をいかに増やすかということで、比較的まとまって強いイメージとして展開していったということが言えるのではないでしょうか。
わたくしは、所得倍増論の頃の社会的な出来事を回顧してみると、先ほどの拝金主義とはだいぶ違うイメージがあったのではないかと考えております。それは、所得倍増と言えばまさにお金の話で、収入を増やすということではありますが、敗戦後の日本社会が、まったく物がない、社会的インフラも崩壊した時代に、財やインフラの整備は、もちろん経済活動ではありますが、それに加えて、親の子に対する愛情であるとか、あるいは社会に対する復興の気持ちとか、そうしたものが組み合わさって経済成長の原動力となった意味で、必ずしも拝金主義的な経済発展というイメージは、当初は比較的薄かったといえましょう。私は団塊の世代ですから、60年代というと中学生ぐらいですけれども、そういうイメージを持っております。