2011年度 世田谷市民大学 連続講義


「アジアの幸せ」

第1回 梶原先生 4月13日 9/10
アジアの苦しみ、アジアの幸せ

先ほどから申し上げている、富というのも、どこかで幸せと関係しているし、満足もそうでしょうし、もうちょっと人間の感情的な面では、もちろん愛情などの言葉もそうですし、人間関係とか、家族とか親子とか、こういうものも幸せの実態とどこかで結びついた、あるいは不幸せと結びついたかたちで出てくるわけです。

直接の関係はわかりませんけれども、国民総幸福の議論と、アマルティア・センの社会観というか、社会経済観、見方というのはどこかで非常に結びついています。では、その南アジア文明・文化に文化的な起源を求めることは、あまり詮索してもしようがないでしょう。ただ、こういう議論が、ブータンはご存知のようにインドの隣の国ですし、アマルティア・センは、欧米で活躍している経済学者ですけれども、元はベンガル地方、インド、あるいは今のバングラディシュに近いところです。それから、グラミンバンクの考え方も、バングラディシュですから。そうすると、あまり確かなことはいえませんが、南アジアと総称されるようなところ、この中にはいろんな地域と国がありますから、全部一色にまとめるということは無理ですけれども、このあたりで、こういう議論が非常に活発に生まれてきたというのは、ある種、象徴的な、どこかに、多少、文化とか地域の意味というのがあるのかもしれません。
タイの現国王のプミポン国王が、足るを知る経済の重要性を指摘されたことがあります。タイ経済が急激に成長を始めていろいろな不協和音が出た時に、知足、自足が理想で、お金ばかり欲張っても何もならないといわれたことがありました。こうした議論も、マクロな幸せ論の中で考えてもいいのではなかろうかというふうに思っています。
こうした議論の広がりについてもう少しだけお話しましょう。バベルの塔以降とか、いわゆるアダムとイブが楽園を追放されて以来、人間はある種のことを考えざるを得なくなったという、人間の自己認識や幸福などについて意識せねばならなくなりました。考えてみますと、この、幸福について、考えるというのは、当然ながら、永遠のテーマになってしまったのです。
先程申し上げたように、人間個人としてはいつも考えている、あるいは無意識のうちかもしれませんが、そうしたテーマを、個人を越えて、社会やもう少し大きなレベルで考えなくてはならなくなくなったようです。
最後に、興味深いのは、幸せといった時に、最初にわたくしが、「幸福というのは可視化する、目で見えるかたちにするのは難しい」という話をいたしましたけれども、しかし、地獄絵図と並んで、ある種のシャングリラ伝説であるとか、楽園伝説が、地獄ほどではないですが、可視化されているわけです。タイガーバームガーデンは地獄絵に近いほうですが、神話、伝説のなかに、例えばヒマラヤの奥に、シャングリラがあるとか、フンザ王国の話など、長寿の国で、地球に残された最後の楽園というような表現もあります。
どこの文化、あるいは社会でも、実際に楽園があるかどうかは別として、楽園として形象化された建築であるとか公園であるとか、あるいはそういうイメージの集合体というものがあります。砂漠があるイスラム圏なんかで楽園というのは、もちろんオアシスのイメージと結びつくんですけれども、結構、楽園思想というのは、中東、あるいは西アジアに豊富に見られるものですので、これも興味深いテーマかと思います。
幸福というのは、最初から何回か申し上げておりますように、なかなか追いかけにくい、あるいはつかまえにくいということが一方ではあると同時に、切り口によっては非常に鮮明に表れてくる問題でもありますので、今後の諸先生のお話の中で、どこかそれぞれ、皆様のそれぞれのご関心と切り結ぶというか、ピタッと合うというお話が期待できるのではないかというふうに思っております。