2011年度 世田谷市民大学 連続講義


「アジアの幸せ」

第2回 梶原先生 4月20日 1/12
夢みるアジア
それでは、アジアの幸せについて2回目のお話をさせていただきます。先週申し上げましたように、今日はブータンの国民総幸福あるいは国民総幸福量の話を中心にさせていただきます。
『アジア新世紀』叢書が岩波書店から出ておりまして、この中で「幸福―変容するライフスタイル」という1冊があります。ここでの議論をちょっと簡単にご紹介しましょう。総括的な討論として、前の文化庁長官の青木保さん、ハーバード大学のヌール・ヤルマン教授、インドのアシス・ナンディという社会評論家であり、かつ、インドの社会開発実践のNPOにもかかわってる人、そしてもう一人、日本人で映画を中心に文化論を研究していらっしゃる明治学院大学の四方田犬彦さんなどの討論が収められています。その4人の討論の中で、なかなか興味深いことが語られております。
われわれが幸福を考えるときに、1つの大枠として、これは必ずしもアジアだけに限った話ではありませんが、ヤルマンさんと青木さんが言っていますのは、大きな幸福と小さな幸福の問題があるということです。
単純に言ってしまえば、大きな幸せというのは、例えば社会主義によって平等社会を建設するといった意味での社会、場合によっては国家という大枠の中での理想主義的な幸福の追求に当ります。それに反して、小さな幸福というのはもう少し個々人の実際の生活に結びついた、先週もちょっと申し上げましたけど、1日のうちにふっと幸せを感じるとか、ほっとするとか、そういうところから始まりまして、個人が社会の中でどういう歩みを進めていくか、あるいはどういう家庭を持つかとか、その前にどういう配偶者を見つけるとか、年を取っていって充実したシニアの時間を送るといったような、どちらかというと個々人にかかわる幸福のことです。大きいほうが大事で小さいほうがどうでもいいという話では全くないんですが、1つの表現として端的に言ってしまうと、大きな幸福と小さな幸福という、ある種の対立軸に近いものが考えられるのではないかという議論が繰り広げられております。
そのときの1つの理論的な参照点は、これはヤルマンさんも青木さんも言ってますけれども、アイザイア・バーリンというイギリスの政治哲学者の『理想の追求』という本になります。その中で20世紀、社会主義もそうでしたし、ある種の資本主義、あるいは福祉国家論もそうですけれども、その中の幾つかの場合に人間が理想を追求、ちょっと皮肉な言い方なんですけれども、大きな幸せを追求し過ぎるとそれが逆に不幸につながってしまう、ということをバーリンは述べています。
例えば出発点はある種の「理想」だったでしょうが、とてつもない悲劇を招いたカンボジアのポルポトの例を考えていただくと分りやすいかと思います。全く新しい人間社会の建設という理想が出発点では存在したでしょうが、そうした大きな理想、大きな幸福を追求するという過程で非常に悲劇的な、普通では考えられないような虐殺、あるいは抑圧が起こってしまった例です。日本の場合でも明治国家には富国強兵的な、国家全体のある種の大きな幸せを求めて欧米に伍していくという理想がありました。これが全部間違いとは思いませんけれども、その結果としては小さな個人の幸せがかなり侵害を受けた。つまり赤紙1枚で召集されて、ごくごく普通の生活が崩れていくということもありました。
戦後はどうだったでしょうか。前回高度経済成長は拝金主義やお金だけのものではなかったとお話した記憶がございますが、それはそうだったとしても高度経済成長の負の部分としてよく語られたのは、仕事優先とか、会社第一で家庭をないがしろにするという小さな幸せにしわ寄せがいくということでした。それに対して、1970年代以降の少子化社会は非常に微妙な問題をはらみながら、この間申し上げましたように、ある種の完全な消費経済主義ではあるわけです。一方、そこに個人のライフスタイルを追求するとか、ささやかな幸せを追求するという小さい幸福のほうに少し視点が移っていったということもあったように思います。