2011年度 世田谷市民大学 連続講義


「アジアの幸せ」

第9回 松岡先生 6月15日 1/7
インド映画はいつもハッピーエンド~映画が運ぶ「幸せ」感
映画は、語学や歴史、地理、さらに道徳、思想など、いろんなことを教えてくれます。貧しい人は多くの場合、小学校にもろくに行けない場合があるんですが、そういう人たちにとって映画は自分たちの学校ともなっています。国の側から見れば、国家の政策を映画を通じて浸透させることもできます。一番大きいのは、愛国心ですね。
インド映画は、インドに対する愛国心が描かれるものが結構あります。愛国心の現れ方はいろいろですが、いろんな宗教の人たちが仲良く暮らしている、というのを映画の中で見せることも多いです。主人公はヒンドゥー教徒なのだけれど、主人公を支えてくれるおじさんはイスラーム教徒で、主人公が危機に陥ったときに助けてくれるトラックの運転手はシク教徒、主人公を導いてくれる女の先生はキリスト教徒とか、いろいろな人々が主人公に力を貸してくれる姿を見せることによって、どの宗教も仲良く暮らしているのがインドなんだ、ということを映画を通じて理解していったりします。
それからインドと隣国パキスタンは、独立時の経緯もあって仲が悪いのですけれども、パキスタンを仮想敵のように描いて、インド人の愛国心を描く場合もあります。パキスタンという名前は出さなくても、イスラーム教徒の過激派、テロリストという描き方で、それにインド人のヒーローが対抗して国を守る、というような形で描かれることもあります。そんなふうに、映画を通じていろんな教育がされています。インドという国の求心力を、知らず知らずのうちに映画を使って強めていく。そういう役割も映画は果たしています。
ここで映像を見て、ハッピーエンドを確認してみましょう。。


『ムトゥ 踊るマハラジャ』(95)のラストシーン(7分16秒/字幕なし)
http://www.youtube.com/watch?v=vVagwaKUSCo&feature=related


『ミモラ 心のままに』(99)のハッピーエンド直前の歌のシーン
http://www.youtube.com/watch?v=8LPH9F2vWpY&feature=related

こういう風に必ずと言っていいくらい、インド映画はハッピーエンドになります。特に『ミモラ』は、結婚式を挙げておきながら妻が昔の恋人のもとに走る、というストーリーなので、もしそれを映画の中で許してしまえば、現実のモラルが危機に瀕することになります。婚姻の絆というのは非常に神聖で大事なものだ、やはり彼女は最後には夫のもとに帰るのだ、という結末にしないと、インド人の気持ちとしてはハッピーにならないのです。
こういうハッピーエンド、あるいはラストの勧善懲悪によって、インド人は映画を見て幸せな気持ちになっていたのですが、最近は少し変化が起きています。
レジュメの最後「経済発展による変化」に書いたように、1991年からのインドの経済発展により、特に2000年代に入って経済的な豊かさが中間層に広まっていくにつれて、映画も変わってきています。ひとつにはシネコン、シネマコンプレックスがインドでも増えたことによるもので、すでに大都市は飽和状態ですし、中小都市まで拡がってきています。
シネコンは料金が普通の映画館の倍ぐらいするんですが、それを平気で払える層、多額のお金を消費できる層が増えてきたんですね。シネコンの増加で従来型の映画館は閉鎖に追い込まれたり、シネコンに変身したりして数が減ってきています。貧しい人たちはシネコンの高い料金は払えないし、払えるとしても明らかに金持ちの世界なのでそこに入っていけない。そのため彼らは、映画館で映画を見る機会がだんだん少なくなってきています。
それから「インド映画のグローバル化」と書きましたが、最近は海外在住インド人、NRI(Non-resident Indian)を主人公にした映画が増えてきました。これは、NRIの数が増えているということと、やはり海外を舞台にすると、見ているインド人観客が憧れを抱く。ちょうど私たち日本人が昭和30・40年ごろにアメリカのテレビドラマを見ていたようなものですが、中間層以上の人たちに受けるので多くなってきています。するとそういう映画は、英語のセリフが多かったりするので、貧しい人たちはなかなか楽しめないんです。
さらにハリウッド映画も進出してきて、特にシネコンではハリウッド映画の上映が増えています。それもあって、だんだんとインド映画自体がハリウッドの影響を強く受けるようになってきました。
そのため、娯楽映画に変貌が起きてきています。「ミュージカル」の形式は、残ってはいるものの曲数が少なくなったり、あるいは数曲入っていても、主人公が歌ったりするシーンは2曲だけで、あとはバックグラウンドミュージックで歌が流れるだけ。そういうスタイルが増えてきて、豪華な歌と踊りのシーンが少なくなってきています。
「ナヴァ・ラサ」の方も、あらゆる娯楽要素を入れて楽しませるという映画が減ってきました。これはサスペンス映画だ、ということで、あまり滑稽なシーンや恋愛のシーンが出てこなかったりする。そして勧善懲悪、必ず最後に悪を退治してハッピーエンド、それが貫かれない映画も現れました。
2006年の『DON 過去を消された男』という映画は、ドンというギャング団のボスが、警察に追われている最中に死んでしまう。それで警察がドンそっくりの青年を身代わりにし、一味にもぐりこませてギャング団を逮捕しようとする。そういうストーリーです。1978年にオリジナル版の『ドン』が作られた時は、身代わり青年の活躍で最後はギャング団が一網打尽になってめでたしめでたし、だったんですが、2006年のリメイク版では、身代わりになってギャング団に潜入したはずの青年が、実はドン自身だった。ドンは青年を殺し、自分は生き延びていた。悪が勝利したのだ、という結末になってしまっています。

 DON 過去を消された男

昔なら、悪は絶対に退治されないと我慢できないぞ、みたいな観客が大多数だったのが、なんだ、アイツは生きていたのか、というような感じで観客は結末を容認し、映画はヒットしました。楽しかったらそれでいいや、という観客が特にシネコンでは増えてきています。生活が豊かになって、いろんな欲望が充足されてきたからでしょう。映画は自分たちの幸せを代弁してくれる、というような思い入れがなくなり、単なるエンターテイメント、見ている間が楽しければいい、というようなものにインドでも変わりつつあります。
貧しい人たちはそういうところに不満を抱き、ボリウッド映画以外の地方言語の映画に足を向けるようになりました。地方言語の映画は、今でも昔ながらのスタイルを残していたりするので、グジャラーティー語やマラーティー語、ボージプリー語などの映画の観客が増え、人気が出て、製作本数も増えてきました。このようにいろんな変化がインドでも起きており、映画に託す幸せを得たい気持ちも少しずつ変化してきています。