2011年度 世田谷市民大学 連続講義


「アジアの幸せ」

第3回 宮脇先生 4月27日 6/7
チベット人の幸せ 仏教徒としての人生
さて、幸せをどう考えるかということに関して、仏教の話をしましょう。人間は、自分だけの力で何でもできるわけではないから、目に見えないものを信じられるかどうかによって、人生がずいぶん違います。だから宗教は大事だと思いますが、組織としての宗教は別に考えなければなりません。歴史の勉強をしていますと、宗教は毒にも薬にもなることがわかります。宗教のせいで人殺しもしますしね。イデオロギーって怖いでしょう。
日本人は戦後、とくに文科系の学問は、精神や宗教は個人の問題で、学問的には解明できないからと扱わないできました。そのために本当のことがわからなくなったと思います。見たくない原発のことは、見ないで知らん顔してきた精神とすごく似ていると反省しています。嫌なことでも正面から見るとか、本当のことを突き詰めて考えるとかしないと、日本の将来は危ないです。日本はみんな穏やかで、仲良くしていればずっといい国が続くと、私も思っていました。だけど、今回の大地震と福島原発事故の対応で、本当にがっかりしました。なあなあで、こういうことになってますから、こういうことでいきます、とか、空気がそうなっていたから、とかいうのは絶対にいけないことだと思います。私たち一人ひとりが変わるしかない。上だけ変わっても駄目だと実感しています。
チベット仏教は、日本の仏教とはかなり違います。本当は皆さんにチベット仏教の講義をしたいけれども、私は素人でそんな能力はありません。でも、山口瑞鳳先生のチベット仏教の講義は、それはそれはすばらしいものでした。先生は言語学者でもあり、歴史学者でもあり、仏教学者でもあります。
チベット仏教には仏教のすべての宗派があります。仏教が優れているのは、目に見えないものを理解するという点です。仏教は心の中で宇宙、世界を考え続ける。私たちが今見ているものは、ずっと同じ形ではない。じつは全てが動いている。これを「無自性」と言います。机だって固く見えるけれど、じつは動いている。永久に存在するものは世の中には何もない。では、どうして私たちが外界を、存在しているものとして認識するかというと、それが、私たち自身の動物としての「業」だから。私たちの目で見るもの全てが実在しているように見えるのは、例えば、映画のフィルムが実際には一コマずつ分かれているのに、続けて見ると動いて見えるのと同じなのだ、と仏教は説明します。
この考えは、最先端の量子力学や物理学と同じです。机のような固い物も全部、じつは目に見えない小さな粒子が動いているわけでしょう。原子までいったら互いにぶつかったりしている。だから、ダライ・ラマ14世のような高位の僧侶は、最先端の物理学者と時々対談をします。昔の北インドのアティーシャなどの立派な仏教者は、何も見えなくても、何もそういうデータがなくても、同じ考えに行き着いたんです。宇宙の大きさとか、物質というのは、分析していったら、永遠に存在しているものは何もなくて、互いに依拠しあって縁起しているんだということに、頭の中で至った。


仏教は神様がない宗教なので、始まりも終わりもありません。神様(創造主)のある宗教では、「自我」を心と身体を支配する所有者と考えますが、仏教では、この世のあらゆるものが他のものに依存して移り変わるので、自我にも始まりも終わりもありません。意識の連続体に「自我」という名称が与えられているだけなのです。
形あるもの全ての本質は、「自性」がなくほかのものに依存している。これを「縁起」と言います。自我も縁起のひとつですが、「無」から生じるわけではなくて元がある。その元がどこから始まっているかというと、元の元がある。全てがお互いに依存しあっていて、お互いに関係しあっている。
有無の「無」というのは本当に何もないことを意味するんですけど、「空」というのは、自性はないけれどあるように見える。つまり私たちがあると認識できる。それ自体ずっと存在しているわけではなくて、じつは移り変わっているものだけれども、縁起しているので、動物である我々は、そう思うようにつくられているから、これをものの形として認識して生きている。