2011年度 世田谷市民大学 連続講義


「アジアの幸せ」

第3回 宮脇先生 4月27日 7/7
チベット人の幸せ 仏教徒としての人生
このことを人間が本当に理解することは非常に難しい。お釈迦さまだってあんなに厳しい修行をしてようやく悟ったけれども、他人にはなかなかその通りには伝えられなかった。伝えられた人それぞれが考えて、でもやっぱりお釈迦さまのようには理解できない。毎日毎日これを考え続け、修行し続けることが重要で、これを本当に正しく認識して行動できることを「悟り」の出来た人と言う。
これが「般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)=般若の知恵がある」ということです。「あらゆるものは無常である」と、日本人も言葉は知っているんですけれど、本当の意味を悟るのは大変難しい。山口瑞鳳先生も「僕も毎日考えていても、翌日起きると、昨日のことは忘れている。常にこのことを考え続けていても、それに到達できるかどうかはわからない。それは、生物が生きていくためには、執着が必要だから。愛したり毎日ご飯食べたり、何かが欲しかったりしないと生きていけないから。そういう風に作られているから、執着を離れるのは難しい」とおっしゃった。
チベット仏教は、世界を明らかにする哲学で、信仰する対象はないんです。でも、仏教徒になってもらうために「方便」を使ったわけです。阿弥陀如来が助けてくれる、とか。夫婦仲良くしても悟りには近づくんだよ、とか。怒ったり盗んだりしないだけでも、よりいい人になれる、とか。凡人が悟りに行き着くことは難しくても、なるべく近づくように、お釈迦さまは羊飼いには羊飼いにわかるような話をし、人を見て法を説いた。それを方便というんです。「嘘も方便」というのは誤った使い方なんですね。
お釈迦さまは「自我」のあるインドで修行しながら、自我はない、というところまで行き着かれた。これを、仏教で大事な「空」を見つけた、と説明するんです。大乗教というのは、お釈迦さまがおっしゃった経典のほかに、偉いお坊さんが考えた哲学書もあって、それは全部チベット語訳があります。チベット人は、食べていくものだって少ないのに、知的欲求がすばらしく高いと思います。
仏教の経典は難しくて、読んだだけではわからないので、偉い先生について修行して、それでも疑問が一杯出るので、兄弟子と論争するというのがチベット仏教なんですね。僧院の大きな中庭で、お坊さんが相手に向かって論争を挑む最後に、パーンと手を叩く、というのをご覧になったことがありますか。チベット仏教の歴史には、論争の話が多い。中国禅は昔、チベットの正統派仏教と論争して負けて退散したんです。
人間にはみな、生まれながらに仏性があるから、修行をすれば誰でも悟りに到達できる種を持つ。そうすると、頭をからっぽにして何も考えないようにすれば仏になれる、と考える人が出てくる。しかし、何もしないんだったら、修行していないのと同じなんだから、畜生じゃないか、と反論する。そういう論争も文献に残っていて奥が深いです。仏教は、哲学的な意味で面白いものなんだ、ということが、チベット仏教を知ってわかりました。
どんなものもいつかはなくなってしまうのだから、大切な人を失ったからって、そんなに泣かないで。悲しいのは人間だから、そういう風に生まれたのだから当たり前だ。愛するのも、憎むのも、感情が起こるのも、当たり前だ。けれども、何もかも移り変わることを悟れば、気持ちも切り替わって、自分自身で次の段階に行ける。
外界は全て認識である。執着が、人間という生物としての生きるエネルギーとなっているんだ、ということを理解すれば、怒りや悲しみは決してなくならないけれども、乗り越えて次へ行くことができる。ダライ・ラマ14世は、インタビューでそのようなことをお話しになっています。
美味しいものを食べたいというのは欲ですが、欲はなるべく少ないほうが満足できる。満足というのは、自分の修行に対する満足です。幸せは個人の感じ方ですけれども、チベット人はみなこのような考えで生きている。ところが、チベットに入植するような中国人は知識階層ではないので、チベット人を、漢字ができない野蛮人で、こんなに貧しい暮らしをしていて、豊かになったほうが幸せじゃないか、と勝手に考えるんです。漢字ができたほうが出世するのに、とか。このカルチュラル・ギャップこそが、民族問題の本質だと思います。中国の支配者は、チベット人を中国人並みにしたいのに、チベット人は決して中国人のようにはならない。これは目の敵にしますよね。