2011年度 世田谷市民大学 連続講義


「アジアの幸せ」

第4回 宮脇先生 5月11日 4/7
モンゴル人の幸せ 国家と民族と家族への思い

 地図:宮脇淳子
中国に住むモンゴル人の人口の方が、モンゴル国より多い。清朝時代には、今の内モンゴルのほうが清朝の宮廷に近かったから文化程度が高く、北のモンゴル人は田舎者扱いされていました。気候が悪いので人口も少なかった。清朝の支配層の満洲人は、モンゴル人の親戚のようなものです。モンゴル人は遊牧民で馬に乗って移動するのですが、満洲人は東方の、もう少し雨の多いところで暮らしているので、遊牧ではなくて狩猟をしていた。灌木があるので、羊やヤギを飼うのは危ないし、馬も走れない。でも農業ができる、満洲人の祖先は、黒龍江にいた靺鞨(まっかつ)と呼ばれた人たちで、南下してきて女真(じょしん)、女直(じょちょく)となった。彼らはチンギス・ハーンの家来になって、元朝のモンゴル人が万里の長城の北に退却して、明朝になったあと、シベリアのテンなどの毛皮貿易でお金をためて、次の清朝の皇帝一族になったんです。だから清朝ができたとき、チンギス・ハーンの子孫のモンゴル貴族と満洲皇帝の一族は親戚になりました。清の軍隊には、八旗兵とモンゴル騎兵がいたんです。南のモンゴル人は、北京によく出入りしていて、領主は北京に大きな住居を構えて、家来や領民たちは、故郷の草原で遊牧して暮らしていました。
同じモンゴル語を話す人たちだったのに、なぜ北のモンゴル国だけが独立国になれたかというと、ゴビ砂漠があったので、漢人農民が歩いて入ってこれなかったからです。北京に近い内モンゴルには、清末から漢人が入ってきて、1912年に中華民国ができたあとは、軍閥が軍隊を使って農民を入植させました。東の満洲は、ロシアが敷いた鉄道が中国人の料金をものすごく安くしたから、山東半島の人が遼東半島まで船で渡って、旅順・大連から列車で入りました。これは20世紀初頭からです。満洲に入った農民は、そこから隣の内モンゴルに入りました。20世紀になってから、南モンゴルで遊牧地が漢人に取られて、モンゴル人は匪賊になったり馬賊になったりする時代が始まったわけです。
新疆ウイグル自治区の北部にもモンゴル人がたくさん住んでいます。前回チベット自治区のところで話したように、青海にもモンゴル人が住んでいます。中華人民共和国が建国されたあと、内モンゴル自治区には多くの漢人が入植して、すでに85%が漢族で、モンゴル人の人口は10%台です。内モンゴルも、冬は零下30度〜40度になるし、乾燥しているので、農業のために草原を掘り返してしまうと、次は草も生えてこなくなります。だから、内モンゴルに漢族が入って農業をすると、どんどん砂漠化します。日本人で植林に行っている人はおおぜいいますが、なかなか有効ではない。風が吹くと黄砂が飛ぶわけです。
黄砂は黄土高原から来るんですが、モンゴル人が放牧しすぎたから草原が荒れたと中国政府が言うのです。ずいぶんなことを言いますよね。モンゴル人は、土を掘り返さないように気をつけて、2000年も前から同じ生活をしてきたんです。このことを経験的に知っていたわけです。でも漢族が入植して、後のことを考えないで、どんどん開墾してしまった。例えば、黄河の上流を灌漑しすぎて下流に水がいかない。これを、チベット人が木を切ったからと言う。
今ではモンゴル国のモンゴル人は、中国のモンゴル人を、中国人より中国人のようだ、と警戒しています。内モンゴルはチベット仏教を大切に思っていますが、北京政府は、モンゴルとチベットが仲良くしないように気をつけています。
その他に、ロシア連邦のブリヤート共和国にも35万人もモンゴル人がいて、チベット仏教徒です。17世紀にロシア領になりましたが、ウラン・ウデに行くと仏教寺院があります。チベット語の本もたくさん残っていますし、チベット医学もおこなわれています。