2011年度 世田谷市民大学 連続講義


「アジアの幸せ」

第4回 宮脇先生 5月11日 1/6
モンゴル人の幸せ 国家と民族と家族への思い
チンギス・ハーンのモンゴル帝国も、ジョチという長男がいちばん遠いロシア方面に行きました。だから、ジョチの息子のバトゥがヨーロッパ戦争の指揮官だったんですが、他の一族も戦争に行く権利があるんです。戦争に手弁当で参加したら、分け前がもらえる。勝つ戦争に参加したら非常に儲かるので、これは権利なんです。
戦争に先立って貴族や将軍たちが会議をして、軍隊の編成や人数を決めます。例えば、すべての1000人隊から500人出すと決めたら、従軍した本人はたとえ死んでも、家族が分け前をもらう権利がある。戦利品が分配されるとき、指揮官がまず2割とり、あとを1000人隊に公平に分配します。そうすると、各1000人隊長が2割とって、あとは10の100人隊に平等に分ける。100人隊長も2割をとって、あとは10の10人隊に分配する。ローマ帝国時代から10進法を使っているのは、戦争のとき、誰が上官かということがすぐ分かって便利だからだし、分配するときも計算が楽だからです。チンギス・ハーンには102の1000人隊があったのですが、これは株のようなものです。
今のシベリア・タタールやカザン・タタールなど、ロシアに住むモンゴル系民族は、チンギス・ハーンの長男ジョチの子孫です。次男のチャガタイの子孫は中央アジアに行き、その家来からティムールが出ました。彼はチンギス・ハーンの男系子孫ではなかったので、チャガタイ家のお姫さんと結婚して君主になりました。この人の子孫が北インドに入ってムガール朝を建てた。「ムガール」というのは「モンゴル」をペルシャ風に発音したものです。末っ子のトルイが元朝を建てたフビライの父なので、末子が故郷にいるわけです。このように遊牧民は外へ外へと広がっていくので、末子が親の面倒を見る。だから長幼の序もない。兄弟の子供も叔父さんの子供も従兄弟と呼ぶ。儒教にある輩行という秩序もない。
モンゴル人が民族を意識したのは、20世紀になってからです。国家も、内モンゴル人は、果たして中国に愛国心を持っているかどうか。モンゴル人は、自然上も政治上も厳しい環境で生きてきたので、日本人に較べてはるかにタフです。モンゴル人は動物と暮らしているせいか、人間も動物だという気持ちが強い。モンゴルの草原から日本に帰ってくると、考えなくてもお水が出てきて、考えなくてもトイレが流れて、なんていいんだろう、と思うんですけれども、モンゴルに行くと自分を外側から見られます。モンゴル人のように何も物を持たなくても、人間ってこれだけで生きていけるんだとわかる。幸せに対する考え方がちょっと変わると思います。

最後に、なぜ内・外モンゴルにわかれたのか、という歴史についてご説明しましょう。1636年の清朝建国のとき、まず今の内モンゴルの人たちが満洲皇帝の家来になりました。ゴビ砂漠の北のモンゴル人は、それから50年あとの1691年に、清朝の康煕帝の家来になりました。モンゴル人の土地は、もともとゴビ砂漠をはさんで南北にわかれていたし、北のほうはロシアに近かった。けれども清朝治下ではどちらも「外藩蒙古」と呼ばれて、内外の区別はなかったんです。
清朝末期の1904〜5年の日露戦争で、日本は思いもかけずロシアに勝って、韓国の保護権と南樺太と南満洲鉄道の経営権などを得ました。満鉄の東が満洲平野、西がモンゴル草原です。瀋陽は、乾燥したモンゴル草原と農業ができる満洲平野の接点にあって、物々交換のために昔から街があった。そこを鉄道が走ったんです。日本が出て行った1906年というのは、モンゴル草原に漢族がなだれ込んできたときとほとんど同時期です。それまでは清朝の力が強かったので、草原には農民を行かせないように禁止していたのですが、1900年の義和団の乱に始まる北清事変で、列強に負けた清国が、ものすごい賠償金を払わなければならなくなって、広い草原を開発したら税金がたくさん取れるというので、漢人農民に草原を解放したんです。草原を取られた遊牧民が馬賊や匪賊になりました。この馬賊と匪賊を抑えて勢力を握ったのが、張作霖(ちょうさくりん)です。日本では、1906年に今の東京外国語大学モンゴル語科の前身が誕生しました。つまり、モンゴル語ができる人が必要になったんです。
満洲は、まだこのとき中国なんて呼べるものではない。アメリカの西部開拓みたいな未開の地だったんです。日本はロシアに勝ちましたが、賠償金をもらえなくて、現物支給という形で鉄道経営をすることになりました。日露戦争後しばらく日本とロシアは仲良くするんです。4回も協約を結ぶ。なぜかというと、ハルビンの南の長春で、乗客も荷物もそのまま乗った鉄道を、日本人の運転手と車掌が、ロシア人の運転手と車掌に引き継がなければなりません。当時、東京でパリ行きの切符が買えました。乗客はそのまま列車に乗って、シベリアを通ってモスクワを通ってパリに行けたんです。