2011年度 世田谷市民大学 連続講義


「アジアの幸せ」

第4回 宮脇先生 5月11日 1/6
モンゴル人の幸せ 国家と民族と家族への思い
日本は鉄道の接続に関する協約をロシアと結ぶとき、密約で、南満洲は日本の勢力圏で北満洲はロシアの勢力圏と決めました。3回目の協約で、北京を通る線の東は日本の勢力圏、西はロシアの勢力圏と決めました。1911年の辛亥革命のあと、モンゴル人が中国から離れようと決めて、ロシアに援助してくれと言いました。ところがロシアは、ある国と約束したから、北のモンゴルは援助するけど、南は知らん、と言った。これが内モンゴルの始まりです。ロシアは今のモンゴル国を自分の勢力圏に入れて、内モンゴルは放棄した、というか、中国と日本に渡してしまった。それが今、国境を挟んでモンゴルが南北に別れている一番大きな原因です。
1911年10月に辛亥革命が起こったとき、12月に今のモンゴル国の前身のハルハ・モンゴル部族が独立を宣言して、中国はそれを「外モンゴル」と呼びました。自分たちの所にとどまったのが「内モンゴル」です。このとき独立宣言したのが、チベット仏教のお坊さんで、ジェブツンダンバ・ホトクト8世と言います。初代と二代目はチンギス・ハーンの子孫で、三代目からあとはチベットに生まれ変わりました。乾隆帝の時代に、モンゴル人がこの活仏を中心として独立しないように、チベットに生まれ変わるようにしたのです。だから8世もチベット人なのですが、4歳くらいのときにモンゴルに連れて行かれて、ものすごいモンゴル民族主義者になりました。「中国人の作ったものは食べるな、毒だ」といったような激をとばしたんですね。1911年に独立宣言をして、ボグド・ハーンと呼ばれ、ロシア革命のあとの1921年の臨時人民政府の首長にもなって、1924年に病気で亡くなりました。モスクワが暗殺したという説もありますが、まあ多分病気でしょう。
モンゴル人は9世の転生を望んだんですが、モスクワ政府が「8世はもう充分に現世のために尽くしたから、来世は『シャンバラの蓮のうてなに生まれ変わる』と遺言した」と言って、転生を認めなかった。それで、1924年にモンゴル人民共和国が誕生しました。これが、今のモンゴル国です。ただ、当時この国を認知したのはソ連だけでした。ところが、チャーチルとルーズベルトとスターリンのヤルタ会談で、「ソ連が参戦したら、モンゴル人民共和国を認める」とアメリカとイギリスが約束しました。
1945年に日本が負けたとき、この覚え書きを蒋介石に認めさせて、モンゴルで国民投票がおこなわれました。全有権者の98.4%が投票して、独立反対は1票もなく、国民党中国によってモンゴル独立は正式に認められました。
日本はモンゴル人民共和国と1972年に国交を樹立しましたが、アメリカは1988年まで国交を持ちませんでした。つまり、ソ連の衛星国だからと抵抗してたのね。モンゴル人民共和国と満洲国の間の国境紛争が1939年のノモンハン事件です。満洲国の後ろには、関東軍と日本軍がいて、モンゴル人民共和国の後ろにはソ連軍がいたわけですが、国境の両側にはモンゴル人が住んでいました。満洲国興安省もモンゴル人地帯で、これがのちに中国の内モンゴルになります。モンゴルはじつは、日本と深い関係があるんです。私は『世界史のなかの満洲帝国と日本』(ワック出版)という本で、その歴史を書いています。
この方は、20世紀前半に内モンゴル中部で自治運動をした、チンギス・ハーンの子孫の徳王です。満洲国建国後は日本軍部の援助を受け、2回来日して天皇陛下にもお目にかかりましたし、新京で溥儀とも会見しました。日本敗戦後、張家口にいた3万人の日本人を脱出させてから蒋介石と会談し、国民党が敗れたあとはウランバートルに行きましたが、北京に引き渡されて漢奸として服役し、1966年に肝臓ガンで亡くなりました。
主人と私の親しい友人の内モンゴル人、ジャクチド夫妻です。北京大学を卒業して、戦前、早稲田大学に留学していました。これは、1940年代に、徳王の部下として内モンゴルで地方官をしていたときの夫婦の写真です。戦後アメリカに渡りました。