2011年度 世田谷市民大学 連続講義


「アジアの幸せ」

第11回 土佐先生 6月29日 2/7
韓国~祖国の幸福と個人の幸福
2.捉えにくい幸福
それで、再び問うわけですが、なぜ幸福なのか。幸福がどうして問題になるのか、どういうところが問題になるのか。幸福というのは本当に測れるものなのか。自分が幸せだとか幸せじゃないというのは主観的な問題ではないか。例えば経済的な面だけ取っても、貧しいことがすなわち不幸かどうか、それだけではなかなか決まらないというのが、私たちが自分の人生の中で感じていることだと思うのです。
私の学生時代はだいたいが粗末な下宿生活をしていました。今のようにシャワーもエアコンもないし、かなり劣悪な環境にいました。ただ、それを不幸だと思ったことは一度もありませんでした。今はアパートに普通にシャワーやエアコンが備え付けられている。今の学生がああいう生活を強いられたら、自分は不幸だと思うかもしれません。そういう周りとの比較、あるいは未来がどうなるかという予測が幸不幸を左右する要因として大切になってきます。
あるいは、非常に贅沢な生活をしている人と、宗教的な戒律なり修行の過程で自分がわざわざ貧しい食事を取っている人とでは、同じ貧しい食事でも意味が変わってきますから、幸福かどうかということも一律に言えないわけですね。大きく言えば社会、民族、国家によって歴史とか価値観が異なれば、当然幸福観も異なってくるということになります。
そういう中で、客観的な基準というのは本当にあるのか。大きな流れで見ると、人々が物質的な豊かさだけを求めていたGDP中心の価値観からGNH的な価値観にスライドしつつあるのではないかという見方は、間違いではないと思いますが。
ヘルダーという19世紀ドイツの思想家がいますが、この人の有名な言葉をちょっと紹介しておきます。この人は、文化相対主義とか多元論の最初の思想家というふうに言われています。ヘルダーから文化相対主義、ないしはナショナリズムといったものが始まった。要するに、民族ごとに価値観が違うということを最初にはっきり述べた人です。『歴史哲学異説』という著作でよく引かれる部分です。「どの国民も、その幸福の中心を自分自身のうちに持っている。どの球体も、その重心を自分自身のうちに持っているように」。
要するに、幸福というのは民族とか国家というものを超えて、普遍的な基準ではかれるようなものではない。ある民族の中、生活の総体の中心にこそ幸福というものがあって、そういうものの外に客観化できる、数値化できるようなものはないということを一番はっきり述べた人です。
こういう人が片方にいて、最近注目されているのは先ほどのいろんな指標化ですよね。幸福を数値化しようとする世界的な動き。この2つのものがあるということを意識していただくと、幸福論の難しさとか揺れというものがお分かりになるんじゃないかと思います。
ヘルダー的な考え方で言いますと、極端なことを言えば一人ひとり幸福というものは違うので、比較は不可能ということになります。一方で、なぜここまで幸福論が世界的な流行として出ているのか。これもよく言われることですけども、1つは世界中の人々のライフスタイルが非常に近いものになってきているということがあります。
昔は日本人と韓国人、あるいはドイツ人とイタリア人というのは全く違う生活スタイル、ないしは価値観を持っていたかもしれない。そういうときにそれを超えるような同じ幸福がないというヘルダー的な考え方が説得力を持っていたかもしれません。しかし、世界中どこに行っても、例えばサラリーマンとかビジネスマンと言われる人々は同じような行動様式、ライフスタイル、価値観を持つようになった。いわゆる、中間層と言われる人々です。アジアでも、そういうライフスタイルが非常に似かよったものになりつつある。そういうことが、1つの背景にあるのではないか。共通の幸福は何かと問うことが、昔ほど無理がないという、そういう時代になっているのではないか。
2番目は、これもよく言われることです。物質的な豊かさをひたすら追い求めてきた価値観が、今は曲がり角に来ているということです。これからの文明がどういう方向に向かうかということを考えるときに、GDPで測れるようなものからちょっと発想を変えないと、地球そのものが持たなくなるという認識ですよね。こういう中で、幸福が問題になってきているのだと思います。これから韓国の話に入りますけども、韓国においても基本的な背景は同じです。
1つは、先ほどのヘルダー的な見方から言いますと、韓国人にとっての幸福を知るということは韓国文化、あるいは韓民族の総体を問うことに等しいと言っても過言ではないということです。主観的、ないしは集団表象的な例が大きな手がかりになります。具体的には、文学とか宗教、映画、芸術などに目を向ける必要があります。
ただし他方で、特に近現代の韓国社会を見ると、産業化、都市化、グローバル化によって、日本以上に激しい変化を経ている韓国のことを理解するためには、それだけでは不十分になります。伝統と近現代、大きく分けるとこの2つの文脈の中で検証していく必要があります。