2011年度 世田谷市民大学 連続講義


「アジアの幸せ」

第12回 土佐先生 7月06日 6/6
日韓若者の幸福のゆくえ
さすがに、こういうのは日本には来ません。日本に来るのは、ある程度日本人に受け入れられることが大前提ですが、これだとあまりにも救いがありません。左の人が今独りで孤独に暮らしている非正規職の男です。実は、彼は小さな子どもに対してしか性的に興奮しないという設定です。それで、右の人の娘を襲って、死なせちゃったのです。つまり右は被害者の父親、左は加害者という関係で、それぞれの無味乾燥な生活を描いていきます。今の韓国は、そういう性犯罪者は日本なんかよりはるかに厳しい取り扱いを受けていまして、GPSの位置情報を発信する発信機を足首にずっと付けてないといけません。この人もそういう装置を身につけていて、極貧の生活を送っているんですけども、時々刑事がやってきてチェックをする。
その中で2人の男の人生が交錯し、また破局に向かっていくというものですけども、とにかく暗くて救いがありません。関心のある方は、YouTubeで一部を見ることは可能です。
このくらいにしておきましょう。隣国の若者の現実を見ていくと、やっぱり本当に暗い気持ちにならざるを得ないというか、そういう絶望において、日本と韓国の若者の現実は非常によく似ているのです。
これで終わってしまうと後味もよろしくないでしょうから、最後は少し救いのあるお話でもできたらと思います。韓国で知らない人がいないというくらい有名なお坊さん、法頂(ポプチョン)のことを紹介します。残念ながら昨年78歳で亡くなりました。この方の本は普通の人でも親しめるようなエッセイが多くて、特に『無所有』は韓国でベストセラーになり、日本語にも訳されています。このお坊さんをご存じの方でしたら、何人かいらっしゃるようですね。
日本にもファンがけっこういるようです。高僧とかいうわけじゃなくて、むしろそういう地位や財産一切を捨てて、山の中で「火田民(ファジョンミン)」という昔、焼き畑農耕をしていた人たちの村落の廃墟で長年1人で暮らしていました。そこから時々里に下りてきて、人に会ったり話をしたりという素朴な暮らしを死ぬまで続けました。仏教の教えが基礎にありますが、いろんな宗教の人と対話をして、そういうこと自体が話題になる人でした。死後は自分の著作をすべて絶版にするようにとの遺言でしたが、かえってそれであらためて本が売れるという消費社会の逆説も見られました。
『無所有』から1節引いてみましょう。
「私たちは必要に迫られていろいろな物を持つようになるが、時には、その物のためにあれこれと心をわずらわせることになる。つまり、何かを持つということは、一方では何かに囚われるということになる。必要に迫られて持ったものが、かえって、私たちを不自由に縛ってしまうことになれば、主客転倒であり、私たちは所有されてしまうことになるのである。それゆえ、たくさん所有しているということは、普通、自慢になっているが、それだけ多くのものに縛られているという側面も同時に持っているということになるのである」。
これは仏教の基本的な考え方ですけども、それを現代人にアピールする分かりやすい言葉で説いて、エッセイというかたちで広めたわけです。また、彼のピュアで素朴な生き様そのものが人気の源泉でした。
仏教の、昔ながらの古典的な考え方が、現代人の心にも訴えているわけです。海を越えて日本にも少なからぬファンがいます。
要するに、幸福というのは最後は考えようです。GDPなどを中心に考えても、これから高成長は望めないですし、日本の若者も韓国の若者もその意味では希望が全くもてません。しかし、何も持っていないとか、より多く持てないということは、それ自体は幸福でも不幸でもない。そういうことを受け入れる思想的な伝統が、昔から日本にも韓国にも備わっているわけです。
生存競争の厳しい今日の韓国でも、こういう本もベストセラーになるのです。さっきのような映画もあれば、こういう考えも大衆的な人気を得ている。ここに、これまでのGDP中心の考え方を転換するヒントがあると思っています。