2011年度 世田谷市民大学 連続講義


「アジアの幸せ」

第7回 辻村先生 6月1日 2/4
西アジアの幸福な風景2〜潺々と河水流れる楽園
また、アラブの遊牧民というのは非常に血の絆、血の結束が強いのに対して、イスラーム教はそれを否定します。イスラーム教を信じる人たちは皆同じ、神の前では平等である、ということを言うわけですから、アラブの血の結束を否定することになります。部族主義については、例えばアフガニスタンでタリバーンが人質を取った時のことを思い出して下さい。日本人も人質になりましたよね。そのときに誘拐犯と交渉に当たってくれたのは部族長です。イスラーム教の国ですけれども、実際に力を持っているのは部族長なのです。今日まで、それほどの強い結束を持っているのですから、昔はなおのことでしたでしょう。それに対して、ムハンマドは「神の前には平等である」と言ったのです。
イスラームの性格としてもう一つの大きな特徴は政教一致です。ユダヤ教の場合も政教一致ですが、ユダヤ教はその名前から見ても分かるように、神から与えられた律法はユダヤ人にしか適用されません。自分たちユダヤ人は、神から選ばれた民であるという選民意識からどうしても抜けられないのです。その点、キリスト教は万人に対して開かれた宗教で、マタイ伝に「シーザーのものはシーザーに、神のものは神に返せ」と書かれているように、政教分離の考え方をもっています。イスラーム教はキリスト教と同じく万民に開かれていますが、政教一致を目指します。「ウンマ」と呼ばれるイスラーム共同体が、精神的な、宗教的な責任だけでなく、社会的な責任も持つからです。
イスラーム教にスンニ派と、シーア派があることはご存じの方も多いと思います。スンニ派にとって最も重要なのは、このイスラーム共同体の意思です。いっぽう、シーア派では「イマーム」、つまり指導者の力が非常に強いのです。イランがイスラーム革命を成し遂げた際、それを指導したのはホメイニ師でした。それは、シーア派が持つ指導者の力の強さがあったからです。
ローマ帝国の中での平等は市民、それも男子に限られておりましたが、イスラーム教の平等は少なくとも教義上ははるかに徹底しています。神の前では女性も奴隷も皆、平等なのです。神が命じたことはどんなに辛かろうとも信者のすべてが守るべきだと考えられています。ですから、子供や老人、妊娠中の女性に対する配慮があれば、それはすべて神の情け深さによる、という断わりが入ります。信者にとっては、現世とは信者にとって試練の場ですが、神の言葉を守って現世での暮らしをしていくかどうかは、個人の選択です。コーランの第2章256節に、「宗教には、強制があってはならぬ」と、宗教的自由が明確にされています。でも、それによって来世での地位が定められるのです。死んで天国に行けるか、地獄に行くのか、それは現世で神の言ったことを守るかどうかにかかっているというわけです。
喜捨もイスラーム教徒としての重要な義務です。喜捨には2つあって、1つはザカートと言い、ラマダン明けに年収の2.5%をモスクに寄付するものです。もう一つはサダカと呼ばれ、日常的に行われる寄附です。モスクに集められたザカートはモスクの維持、経営に使ったり、貧者の医療費などにまわしたりします。サダカはいつでも、どこでも行われます。町を歩いていると、路上に座り込んだ貧しい人から手を差し出されることがしばしばあります。彼らは「神に対して善き行いを」と言って手を伸ばします。決して「私にお恵みを」ではないのです。寄附することによってあなたは徳を1つ積むわけですから、神に対して、あなた自身が善い行いをしなさい、と彼らは堂々と手を出すわけです。
慣れないと、手を出された時に「幾ら出したらいいのだろうか」とか、「これから私はずっと出し続けなければならないのだろうか」と迷います。でも、人々の行動を見てみますと、ポケットにすっと手を突っ込んで、小銭があると、「はい、どうぞ」と渡す。なければ、「ごめんね」と言って通り過ぎる。それを実に自然にやるのです。見事なものだと思います。自分自身のためにしていると思えば、出すほうも気持ちが随分と楽になりますよね。それがサダカです。