2011年度 世田谷市民大学 連続講義


「アジアの幸せ」

第7回 辻村先生 6月1日 4/4
西アジアの幸福な風景2〜潺々と河水流れる楽園
いずれにしましても、大した天国ではありません。ただ、ここで心惹かれるのは、川に対する憧憬といいましょうか、非常に強い水へのこだわりです。日本に住んでいますと水が豊富ですので、いつでも飲めると思うのですけれども、水の少ない地域に行きますと、取っておいた貴重な水が腐ってしまう、あるいは汚れてしまうのです。花が周辺に咲いて、蜜が取れるけれど、放っておけばミツバチの腹が混じったような、濁った蜂蜜になります。彼らが、そのようなことを非常にリアルに感じられるというのは、やはり自然環境の違いなのでしょうね。
イスラーム教徒にとって、死後、天国に入ることは最大の幸せですが、生きているときの幸福もあります。その条件について、イブン・ミスカワイフはこんなことを言っています。「1.健康であること。2.経済的に恵まれていること。3.世間的な賞賛を得ること。4.物事において成功をすること。5.宗教的であるか、非宗教的であるかを問わず、正しい考え方、確かな見解が得られること」
ここには、イスラーム教の独自性というのはほとんどありません。私たちだって、健康でいられて、経済的に恵まれて、賞賛を得られればいいなと思うじゃありませんか。しかし、彼はこうも書いています。「究極的な幸福は神的行為への道である」と。
「禁欲的苦行は自己を抑制し、魂を浄化して神に近づくことが幸福への道である」と言ったのは、アブー・ハーミド・カザーリーという著名なイスラーム学者です。8世紀には禁欲主義が蔓延しました。蔓延した結果どうなったかというと、人々は禁欲、禁欲で息苦しく、人生をたいそう暗く感じるようになりました。彼の言葉を聞いてみましょう。「そういう禁欲主義が現世を暗い雰囲気で覆ったときに、現世は信仰者にとっては牢獄であり、不信仰者にとっては楽園である」 ともかく、天国に行くまでの我慢だ、というわけです。
そこに登場したのはラービヤ・アダウィーアという女性です。「私は、楽園に火をつけてしまいたい。火獄には、水をぶっかけてしまいたい。そうすれば、楽園も火獄もわれわれを真理から遠ざけるベールにすぎないと分かり、きえるだろう」。死後には、天国も地獄もない。天国や地獄をつくることによって、真実のことを隠している。つまり死後、あなたはこういうことをやったら天国に行けるのですよ。だから、この掟に従いなさい、というのは、死後を脅しに使っているようではないですか。神をあがめるのは決して火獄を恐れるからでも楽園でいい思いをしたいからでもない。ただただ、神の愛の力によるのだと主張するラービアの力強い言葉は宗教の壁を越えて感動を覚えます。
こうした彼女の考え方の中から、スーフィズムが生まれてまいります。それまでの禁欲主義は、天国に行きたいから禁欲する、地獄に落ちたくないから禁欲するということだったのですが、そうではなくて、神に近づきたいから禁欲するというのが、スーフィズムの考え方です。スーフィーとは、粗い羊毛の織物を肌に纏った人のことです。具体的にどんなことをするかというと、みんなで集まり一心不乱に神をたたえることによって、神との合一を目指すのです。ジクルというのですが、地蔵盆の時に円座になって皆で念仏を唱えているみたいな感じです。有名なのは大きく裾の広がるスカートを着て、ぐるぐると一心不乱に回るトルコのスーフィー達です。ああやって、彼らは神と一体化を目指しているのです。神との合一こそが、至福の時と考えられているのです。
トルコから中央アジアにはシャーマニズムが非常に盛んでした。シャーマンもトランス状態になってその能力を磨くので、スーフィーに似たところがあります。ですから、そのような地域にイスラーム教が布教される際に、スーフィズムの果たした役割が大きかったと言われています。