2012年度 世田谷市民大学 連続講義


「アジア女性群像」

第9回 福田先生 6月13日 1/6
台湾:民進党女性リーダーの系譜
私は中国と台湾の政治や、中国と台湾の関係について日頃研究を進めていまして、今週と来週は中国と台湾の政治・経済における女性の参加、どういった方がご活躍をされているかとか、全体として台湾や中国の女性の政治経済への参加がどのような状況に置かれているかということを中心にお話をさせていただきたいと思います。
今週は台湾女性の政治参加を中心にお話し致します。台湾では女性の政治参加がアジアのなかではかなり進んでいまして、この10年ぐらいの政府は、女性の政治参加に力を入れて取り組んでまいりました。そういった背景を共有しました上で、政治の分野における女性リーダーには、どのような方がいらっしゃるか、女性リーダーの持つ特質やリーダーに求められるものがどのように変わってきているかということをお話ししたいと思います。来週は中国のほうに焦点をあてまして、中国では政治よりも経済の分野で女性の活躍が最近非常に目立っているということがございますので、中国の女性企業家のことを中心にお話をしていきたいと思います。
今日は「台湾における民進党女性議員の系譜」ということで、台湾の民主化運動を行ってきた民進党という政党の女性リーダーについてお話しします。現在、台湾の与党は国民党という党で、長らく台湾で一党独裁を続けてきた政党ですが、この政党は民主化の結果として、一度政権交代をしまして、2008年以降に政権へ返り咲いた非常に珍しい政党です。民進党は再び野党という立場となり、政権の奪回を狙っている立場でございますが、この民進党のなかの女性リーダーのことを中心にお話をしていきたいと思います。
それで、まず話の前提としまして、台湾の政治・経済・社会は近現代の歴史のなかで、何度か当事者が変わるという経験をしました。それに伴い、台湾における女性の立場や女性の抱える問題も移り変わってきましたので、その変遷をまず概観してみたいと思います。
まず日本統治時代から話を始めていきますけれども、日本統治時代の台湾女性は「二重の制約」のもとにあったと、現在では言われています。この「二重の制約」とはどういった制約かというと、一つは元々中国・台湾の社会にあった伝統的な家父長制など、儒教的な価値観をもつ家庭のなかで、女性の立場があまり強くなかったという伝統的な制約です。その上に日本の植民地統治という制約が加わり、台湾の女性は日本の政府に植民地統治をされている台湾社会のなかでも弱い存在として、その声が社会に届きにくい状況であった、というふうに言われています。
台湾はこの日本統治下にあった時代に、植民地として近代化が進んでいくことになりますが、ここで行われた女子教育や女性団体の組織のほとんどは、日本の台湾総督府が主導する植民地統治の一貫として行われたという特徴があります。それに反対する運動も存在しましたが、そういった日本の植民地統治の一部としての女性の組織や女性の教育に反発する台湾の女性の運動は、まず、女性の権利を訴える前に植民地統治からの解放を達成しなければ、その次の女性の権利というところにたどり着けませんので、大きな流れを形成した女性運動は殆どなかったと言われています。日本統治時代は日本の総督府、統治者側が組織した女性の団体がどちらかと言えば主流で、台湾に住む日本人官僚や事業家の妻たちが運営する団体に、台湾人名士の奥様方が参加し、愛国主義的な活動を行っていたようです。それに反対して、抑圧からの解放を求める運動は当局の弾圧に遭ってしまい、そう社会のなかで大きな声にはなっていかなかったようです。特に1930年代の後半から日本が総力戦の体制にはいりますと、台湾の女性団体も戦争への動員、日本が戦っている戦争を支援するという色彩が強くなりました。このように、日本統治時代の台湾女性は、統治者である日本政府からの外部的な圧力と、台湾の社会に元々あった儒教的な伝統との二重の抑圧・制約のもとにあって、女性の参加や女性が自らの主張を堂々と行う雰囲気は生まれづらかったと言えます。
戦争が終わりまして、台湾が日本統治から解放されたとき、台湾の女性たちはこれで私たちも運動できる環境ができると喜び、活動をしていこうという機運が高まったと言われています。しかし、戦後台湾ではすぐに、中国大陸で共産党に敗れ、台湾に遷都してきた中華民国政府による戒厳期が非常に長く続くことになってしまいました。台湾の日本統治が終わり、当初は台湾女性のための団体ができ、盛り上がりを見せていましたが、一気にその状況が変わったのは、1947年の「二・二八事件」という事件であったと言われています。この事件は台湾に元々住んでいた人々と、大陸からやってきた中華民国・国民党の勢力は1947年まではある種の緊張関係を保っていたわけですけれども、その時点で対立構造が決定的となりました。つまり、中華民国・国民党の官吏に対する台湾本土の人々の反発がある地点まで達し、国民党政権もこれを徹底的に弾圧、取り締まっていくということを決意した事件と位置づけられます。そのため、二・二八事件以降の国民党政権は本省人たちをかなり厳しく取り締まり、そうした流れのなかで、戦後を迎えて盛り上がりを見せていた台湾女性たちによる運動も再び厳しい取り締まりを受けることになっていきます。