2012年度 世田谷市民大学 連続講義


「アジア女性群像」

第3回 宮脇先生 4月25日 1/7
20世紀近代化に目覚めたモンゴル女性
本日は、近代モンゴルに関係した日本女性3名とモンゴル女性3名の話をします。日本女性は、河原操子(みさこ)、鳥居きみ子、磯野富士子の3名です。モンゴル女性3名は私が直接知っている人で、オヨンゲレル、サランゲレル、ムンフツェツェグと言います。オヨンゲレルは「知恵の光」、「サランゲレル」は「月の光」という意味です。「ムンフツェツェグ」は「永遠の花」という意味で、モンゴル語でエーデルワイスもこう言います。
モンゴルの環境や歴史については、これまでの講座で話していますし、AJセンターのホームページに講義録として掲載されていますので、今日は女性の話を中心にします。
遊牧民の女性は基本的に放牧には行きません。遊牧民の男は昔から放牧で家から離れているか、戦争に行っていたので、家はすべて女が管理しました。女は家のまわりのこと全部に責任を取るので、家は女が牛耳っています。男と女は非常に対等な関係で、モンゴルの女は強いんです。もちろん労働も平等で、戻ってきた家畜の乳しぼりやチーズ作りやバター作りは女の仕事です。皮をなめしたり、服を作ったり、フェルトを作るのも、男も助けますけれども、女が仕切る。
『朝青龍がなぜ強いのか』(ワック出版)という本で、私は「モンゴル人は他人の言うことは聞かない」と言いました。雨の少ないモンゴルでは、人が家畜を連れて行った草原には草がない。だから、他人が向こうへ行ったら、私はこっちへ行く。「他人と違うことをしなさい」というのがモンゴル文化なので、女も自立心が強く、自分で考えて行動します。
遊牧民には部族主義があって、姓の違う人としか結婚しない族外婚制です。じつは韓国はモンゴル統治時代にこの考えに強く影響を受けました。中国の父系制や天の信仰も、北方の文化だと思います。せっかく結婚するのだから、別の種族と同盟を結んで親戚になるほうが有利でしょう。遊牧民は地縁がなくて人間関係のネットワークしかないので、結婚するときはなるべく遠いところの違う血の人と結婚する。
さて、20世期のモンゴルの話に入ります。1911年10月に中国の南方で辛亥革命が起こった時、チベットとモンゴルとウイグルは、これまで満洲皇帝の家来ではあったけれど、漢人とは関係ないから「あなたたちが独立するならご自由に、私たちは清朝から離れます」と言って、モンゴルは1911年12月にチベット仏教の高僧を元首に推戴して独立宣言をしました。この時、今のモンゴル国だけではなく、今の中国内モンゴル諸部も一緒に独立しようとしたのです。
けれども内モンゴル各地ではたちまち中国の軍閥との間で戦闘が始まり、モンゴル軍は劣勢になりました。このとき日本の川島浪速(なにわ)がハラチン王などのモンゴル王公に武器弾薬を援助したのが、第一次満蒙独立運動です。1912年に中華民国ができた直後のことです。

写真(1)一宮操子『新版 蒙古土産』靖文社、昭和19年
写真(1)ハラチン王は、川島浪速と親しかった清朝皇族の粛(しゅく)親王の妹の婿で、1902年に大阪で開かれた万国博覧会に招待されて日本の近代化を見て、モンゴルでも教育が必要だ、女子教育もしたいから、女の先生を誰か寄越してくれって頼んだんです。それで、1903年にハラチン王府に行って女学校を作った日本女性が、河原操子です。
河原操子さんは、長野県松本藩の儒者の家の出身で、教育こそが大事と言われて育ち、下田歌子の推薦で横浜の清国人学校教師になりました。初めて清国の子女を日本女性が教えたそうです。その2年後の1902年、今度は上海の女学校の先生に赴任しました。
当時はまだ清朝時代ですが、1900年に排外的な義和団20万人が北京に入り、外国人区域を55日間包囲するという北清事変がありました。この「北京の55日」を解放した約2万人の八カ国連合軍の半数が日本人で、川島浪速は、開明的な皇族だった清の粛親王の信頼を勝ち得て、北京の警察官教育を頼まれました。粛親王の娘で川島浪速の養女になったのが川島芳子です。東洋のマタ・ハリと悪口を言われていますが、清の宣統帝溥儀を満洲に連れ出した人で、ハラチン王妃は彼女の叔母にあたります。