2012年度 世田谷市民大学 連続講義


「アジア女性群像」

第3回 宮脇先生 4月25日 2/7
20世紀近代化に目覚めたモンゴル女性
モンゴル人のハラチン王が住んでいたのは、熱河省の赤峰です。温泉が出るから熱河と言うのですけど、近くに清朝の避暑地だった承徳があります。チベットのポタラ宮を模した寺院を建てて、モンゴルやチベットから来る使節をこの離宮でもてなしました。
 赤峰は今、内モンゴル自治区のなかの特別市ですが、昔日本人がよく「満蒙」と言った理由は、満洲とモンゴルが親戚だったからなの。チンギス・ハーンの子孫と満洲皇帝の一族たちは頻繁に娘をやりとりしていました。

写真(2)一宮操子『新版 蒙古土産』靖文社、昭和19年
河原操子はラバの引く小車で北京から9日かかってハラチンに入りました。ここで満洲貴族の王妃とともに開講した毓正(いくせい)女学校が、モンゴルの女子教育のスタートなんです。写真(2)だから、今でも内モンゴルから日本に来る女子留学生はみんな河原操子を知っていて、研究者もいます。彼女を先生としてモンゴル人は日本語や音楽を勉強しました。学科にはその他、算術、歴史、習字、図画、編物、体操もあります。モンゴルはロシアとも隣接しているけれど、日本が一番教育熱心でした。
モンゴル語は語順が日本語に似ていて「てにをは」に当たる言葉もあるんです。モンゴル人のお相撲さん日本語すごく上手でしょう。モンゴル語のほうが子音も母音も数が多い。母音が7つもあるので、私なんかモンゴル語聞き分けるの大変だけど、モンゴル人にとってみれば日本語の発音はとてもやさしい。しかも当時のモンゴル人は清朝治下にいたから、漢字も知っていた。それで、たちまち日本語を覚えて日本文化になじみました。
河原操子さんはハラチンに3年いたあと、1906年に3人のモンゴル少女を連れて帰国し、3人は下田歌子さんが校長の実践女学校に入りました。河原操子は同年、横浜正金銀行のニューヨーク副支店長と結婚して17年間ニューヨークに住み、大正10年46歳でニューヨークから帰って来て、昭和20年に亡くなりました。彼女が有名なのは、日露戦争のとき、シベリア鉄道破壊工作に向かう横川省三ら特別任務班のための前線基地を用意したからです。ハラチン王と王妃も、これを知って支援をしました。1904年ハラチンから北興安嶺を目指した横川ら一行は、破壊工作に失敗してハルビンで処刑されました。河原操子は、対露戦になったとき親日モンゴル人を増やすことなど、自分ができることなら、お国の役に立ちたいと思って行ったと著書で書いています。
河原操子に続いて毓正女学校の先生になったのが鳥居きみ子です。彼女の夫は有名な人類学者の鳥居龍蔵で、東南アジアや台湾や雲南やモンゴル調査をした人です。鳥居きみ子はいつも夫の助手をしていたんですが、河原操子の後任に推薦されたとき、彼女が先にモンゴルに行き、夫が「ちょうどいいや、じゃモンゴル調査しよう」ってついて行ったそうです。素晴らしいと思いませんか。鳥居きみ子さんは最近になって、日本初の女性人類学者、民俗学者だと評価されるようになっています。