2012年度 世田谷市民大学 連続講義


「アジア女性群像」

第3回 宮脇先生 4月25日 5/7
20世紀近代化に目覚めたモンゴル女性
徳王は自分がウランバートルに行くとき、若い自分の部下たちを西側の世界になるべく逃がそうとしたんです。内モンゴルの現状を世界に知らせるのがお前たちの役目だと言って。それで、ジャクチドはまず台湾に逃げたんです。ゴンボジャブは、前述のラティモアが引き受けてアメリカに渡りました。ところがラティモアが赤狩りで失職したので、モンゴルの上流階級出身のゴンボジャブと奥さんはアメリカで放り出された。カリフォルニアで、チャイニーズ・レストランの皿洗いをしたそうです。奥さんのサランゲレルも看護師になって働いた。でも頭が良かったので、ゴンボジャブは言語学を学んで、インディアナ大学のモンゴル語の教師になりました。
ゴンボジャブは、日本軍が来たとき、かっこいいから軍人になりたいって言ったんですって。そうしたら、田中隆吉が「将来モンゴルは環境問題が大切になるし、お前の家にはモンゴルでは珍しい木があるから」って変なこと言われて、しぶしぶ北海道大学農林学科に留学したんです。戦争末期になって呼び戻されたので卒業はしていないんですけど、日本語ぺらぺらなの。モンゴル人って何であんなに言葉が上手になるのかしら、と思います。アメリカでも、モンゴル語と英語の辞書を、奥さんがタイプして出したし、アメリカ・モンゴリア・ソサエティーを作りました。だからちゃんと徳王の遺志を伝えた一生です。
もう一人のジャクチドは早稲田大学に留学しました。彼もものすごく日本語が上手でした。彼は北京大学の歴史学科を一番で出たんです。奥さんのオヨンゲレルは教育学部に入ったんだけど、親がお金出して学生結婚をさせて、早稲田に留学したときには奥さんもついて来て、「オリンピック」というレストランで毎日ハンバーグとエビフライを食べたって言ったから、すごい金持ちです。彼は台湾に渡ったあと政治大学で教えてから、ユタ州のブリガムヤング大学に招かれて、アメリカに渡りました。6人子供がいたのだけど、娘1人を親の面倒をみさせるために北京に残したの。息子2人、娘3人は連れて出ました。米中に交流がなかったころ、その娘のことをとても気にかけていて、最後に家族ごとアメリカに呼び寄せました。だから、家族全員がアメリカに渡って、本人は90何歳で亡くなり、夫人は年老いて娘の世話になっていますけど、娘たち家族は今でも私とつき合いがあります。

写真(7)札奇斯欽著『我所知道的徳王和当時的内蒙古
(一)』東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所、昭和60年
ジャクチドは早稲田大学に留学して日本の教育や文化に詳しいので、日本の軍人や特務がたくさんいた内モンゴルの、日本で言えば県庁の役人みたいな地方官になったんです。写真(7)オヨンゲレル夫人と二人、モンゴルのゲルの前に立っていますが、素敵でしょう、背高くてね。これがモンゴルの貴族階級です。でも戦後大陸を脱出して台湾に行ったときは、一銭もなかったそうです。毛皮や財産を積んだ船も沈んで、本当にお金がなくて、どうやって生きていこうかと思ったと言っていました。1年間日本に滞在した間に『我所知道的徳王和当時的内蒙古(私の知っている徳王と当時の内蒙古)』という本を漢文のまま、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所から刊行しました。毎日奥さんと一緒に研究室に来て、原稿もすべて奥さんが清書しました。オヨンゲレル夫人は教育学部に通っていたとき結婚して、すぐ妊娠したので、北京大学中退なんです。でも亭主は悪筆なので、卒論も奥さんが清書したの。この本も、清書しただけでなく、奥さん記憶力がよくて夫とずっと一緒にいたから、「違う、あの人はあのときいなかった」とか「いや、あの人はこんなふうに言った」とか、チェックが入ったそうです。もう本当に素敵な夫婦でした。
オヨンゲレル夫人は、子供は台湾で育てたわけです。娘たちも優秀で、3人とも国立台湾大学を卒業しました。本当はモンゴル人と結婚させたいけれど、そんなこと言っていたら、相手がいない。だから娘は自由にさせると言って、娘2人は台湾人と結婚しました。でも、長男のお嫁さんはモンゴル人です。北京に残してきた娘は北京大学卒です。