2012年度 世田谷市民大学 連続講義


「アジア女性群像」

第3回 宮脇先生 4月25日 6/7
20世紀近代化に目覚めたモンゴル女性

写真(8)宮脇淳子所蔵
 
写真(9)楊海英『墓標なき草原』上、岩波書店、2009年
写真(8)次は、1994年にフランスで開かれた国際アルタイ学会で、久しぶりに合流したときの写真です。一番左が私の主人で、今は81歳になりました。ジャクチド夫妻はずっと一生仲よかったです。中国の中でも、内モンゴルやチベット人は、日本人とよく似ていて、やさしい人たちです。
それなのに、今チベット人は、中国政府が仏教やチベット語を禁止するという文化抹殺に対して、僧侶や尼僧などが抗議の焼身自殺をしているという話を、皆さんご存じだと思いますが、内モンゴルはずっと前、文革のときに、戦前に日本と関係があったという理由で、立派な人ほとんどが殺されたり片輪にされたりしました。
写真(9)この写真は、日本人の堂本修先生を囲む、興安女高のモンゴル人少女たちです。2011年に司馬遼太郎賞を取った、楊海英さんの著書『墓標なき草原』(岩波書店)から取りました。彼は内モンゴルのオルドス出身で、モンゴル名はオーノス・チョクトと言い、日本女性と結婚して帰化し、今は大野旭という名前で静岡大学の教授をしています。何が「墓標なき草原」かというと、中国の文化大革命で、内モンゴルは家族のうちの誰か一人が必ず犠牲になった、ひどいジェノサイド(大量虐殺)だった、という告発なんです。写真の下のキャプションには、「先生はとにかくモンゴル人にやさしかった」「私たちもなんと幸せな顔をしていたんだろう」と、日本統治時代を経験したモンゴル人たちは証言する。1949年10月1日、中華人民共和国ができたあと、彼女たちは言葉では言い尽くせない苦難をなめ尽くした。幸せなモンゴル人たちに笑顔がなくなった、とあります。
日本人が支援した満洲国は、興安省という、モンゴル遊牧民のための特別行政区を作りました。満洲国の日本人官吏が現地調査をして、草原が残っている地域を境界線で囲って、漢人農民にそれ以上開墾をさせないようにしたんです。清朝時代のモンゴルに比べたら遊牧地は減っているけど、このとき日本人が線引きしなければ、漢人が際限なく入ってきたでしょう。それが今の内モンゴル自治区の境界線になっています。だから満洲国がなかったら、20世紀の初めには、モンゴルはなくなっていました。
日本人の中でも、日本人は自分たちに協力させたかったからモンゴル人を大事にしただけだ、と言う学者もいますが、解釈っていくらでもできるんですよね。日本人は、差別意識は低かったですよ。現地は遅れていて衛生状態も悪かったけれど、河原操子さんにしても鳥居きみ子さんにしても磯野富士子さんにしても、すごくモンゴルを楽しんでいます。こんなにもかわいい一所懸命な子たちだって。
日本人は、満洲国だけでなく、台湾でも朝鮮でも、本当に教育熱心だったんですよ。だって、1910年の日韓併合後、朝鮮の下層の人たちは初めて教育を受けられるようになったんですもの。私は、昨年2011年に『真実の中国史[1840-1949]』(ビジネス社)を刊行し、今年は『真実の満洲史[1894-1956]』を出す用意をしているので、いろいろ調べていますが、朝鮮の小学校や中学校が全部国立だったということを、ついこの間知りました。朝鮮で学校の先生をしていた日本人の子孫が、自分の親がいくら給料をもらって、どんな生活をしていたか調べようと、韓国に行ったんです。でも資料は見つからなくて、なんと、日本の中央の役所の文書の中に、初任給とか出張期間とか、詳細な記録がすべて残っていたんですって。日本だと普通、小学校は町立か市立で、中学校も市立、高校は県立ではないですか。ところが、朝鮮の学校の先生たちは、日本が派遣し、日本国から給料をもらっていた国家公務員だったということなんです。小学校の先生までですよ。そういうこと自体知られていないでしょう。