2012年度 世田谷市民大学 連続講義


「アジア女性群像」

第7回 辻村先生 5月30日 1/4
預言者ムハンマドを選んだ女たち
イスラーム社会と申しますと、とても保守的で、特に女性たちに関しては抑圧された存在に思われがちです。一夫多妻を認めていることもそうですし、黒くて長い服を着て顔を隠しているために、自己表現が難しいそうにみえます。さらには、サウジアラビアでは女性は一人で町を歩くことさえできず、また運転免許を取ることもできないなど、日常生活にも不自由を強いられる存在と見られがちです。ごく最近も、イスラーム国であるインドネシアでレディー・ガガの公演が取りやめになったというニュースがありました。女性の自由な身体表現が許されない社会は、西欧的な価値観から見ますと当然のように批判の対象となり、このような女性差別がイスラーム教そのものに内包されていると思われている方も多いのではないでしょうか。しかし、イスラーム教の成り立ちに遡ってみますと、必ずしもそうではありません。第一回目のタイトルを「預言者ムハンマドを選んだ女たち」としましたのは、ムハンマドに従った男性たちによってのみイスラーム社会がつくられたのではなく、女性たちもまた積極的にムハンマド、あるいはイスラームというものを選んだのであり、そこにみられる女性たちの自由な精神を表現したかったからです。
さて、イスラーム圏といいますと、東アジアのインドネシアやマレーシアも含まれますが、主たる地域は西アジアや北アフリカの国々です。チュニジア、リビア、エジプト、サウジアラビア、湾岸諸国、ヨルダン、シリア、イラク、イランと広大な地域に広がっています。古代におきましては、これらの地域はたいへんな先進地域でした。世界に先駆けて農耕を開始し、その後、エジプト文明とメソポタミア文明という2つの偉大な文明が発祥した地だからです。
エジプト王朝には男性の王たちに混じって、ハトシュプスト女王やアクナテンと共に宗教改革を推し進めたネフェルティティ王妃をはじめとする女性たちが知られています。続くプトレマイオス王朝ではクレオパトラ女王がよく知られています。アラビア半島ではシバの女王がいますし、また、北メソポタミアから台頭してきたアッシリアという強大な国と戦った女王たちもいます。それはアドマトゥ王国の女王たちとして挙げられているザビベ、サムシ、ヤティエという3人の女王です。アラビア半島北部のなかほどにドゥマト・アル・ジャンダルという現代の都市がありますけれど、その王国は丁度そのあたりを支配していました。アッシリアのティグリト・ピレセル三世が侵攻してきたために、サムシ女王はこれを迎え撃つことになりました。残念ながら女王軍は負けてしまうのですが、女王軍の内容を見てみますと、1100人の男、3万頭のラクダ、2万頭の羊、と記録されています。彼女は1100人の男たちを率いて強国と戦ったのです。次のヤティエ女王はアッシリアのセンナケリブ王に対して、バビロニアと共同で戦いましたが敗北しました。アッシリア軍に敗北はしたものの、強国と戦うその先頭に女王たちが立っていたのですから、女王は政治力のみならず、軍事も掌握していたことは確実です。時代はローマ時代に降りますが、シリアのパルミラにも軍事に長けた女王がいました。ゼノビア女王です。王である夫はなんとなく頼りない人で、妻であるゼノビア女王は自ら軍隊を率いてローマと戦い、一時はエジプトにまで勢力を及ぼしました。このように、イスラーム以前のこの地域には、勇敢で政治力のあった女性たちが少なからず存在していたのでした。
周知のように、古代における民主政治の始まりはギリシアです。しかし、そこでは奴隷だけでなく、女性も市民権は与えられず、国政に参加することはできませんでした。ギリシアの女性たちの最も大事な役割は夫の後継者となる男子を産むことであり、女の赤ちゃんは捨てられることが多かったと言われています。そして、新生児を捨てるか、否か、その決定権を持っていたのは夫でした。また、女性が結婚するときには持参金が必要でした。結婚するときに男の方が女性の親族に対して財産を渡すのは結納金といいますが、それとは逆に女性のほうがお金を用意して、夫の側に渡さなければならないのが持参金です。そして、いったん結婚すると妻の外出はまれで、身内の男たちとさえ接触しないことがよいと考えられていたのです。外での活動を制限された女性たちが唯一社会的な活動ができるのは祭祀の場であり、神を祀る人になることでした。古代ギリシアの民主政治はおおよそ私たちが想像するようなものではなく、女性にとっては不自由で、大変に窮屈な社会だったといえるでしょう。