2012年度 世田谷市民大学 連続講義


「アジア女性群像」

第7回 辻村先生 5月30日 4/4
預言者ムハンマドを選んだ女たち
モハンマドよりも少し後、西欧社会ではどうだったのでしょうか。今の国名で言うと、フランス北部からドイツにかけての社会ですが、8世紀から9世紀初め、そこはカール大帝によって統治されていました。この人はどんな人と結婚していたのでしょうか。ランゴバル王の娘(ムント婚)、ヒルデガルド(ムント婚)、ファストラダ(ムント婚)、ヒミルトルード(和合婚)。名前の分からない内縁の妻5人(和合婚)。聞きなれない「ムント婚」と「和合婚」というのは何でしょうか。ここでは法律上、女性は何の権利もなく、法廷に立つこともできず、自分の財産を管理することもできませんでした。ですから、後見人が必要でした。ムントというのは法的な代理人をさします。父や近親の男性を家父長とし、その人が結婚しなさいと言ったら結婚し、女性たちは自分の意思で相手を選ぶことはできません。結婚した後も、自分の財産を管理できないので後見人に管理してもらうわけです。それに対して、和合婚というのは後見人を必要とはしません。しかし、それは自由恋愛の結果ではなく、身分の低い女性や自分の家族の中に正式には入れられない人、妾のような存在だったからなのです。正式には、ムント婚でなければ家族として認められませんでした。これがムハンマドよりも後の時代の西洋社会なのです。その頃のゲルマン社会でも複数の女性たちと結婚が許され、しかも女性たちは自ら夫を選ぶことができず、結婚後も財産管理権は認められていなかったのです。男性と女性が同意して結婚にいたることが一般的となるのは、西洋においては、11世紀12世紀に入ってからと言われています。
ですから、ほぼ同時期におけるイスラーム社会と西欧社会を比較するなら、少なくとも後者が女性にとってより良い社会であるとは言えないのです。イスラームという宗教が何に対して戦いを挑んだか、というと、それは、部族社会の持っているいろんな習慣でした。もちろん、多神教に対する一神教の普及ということはあるのですけれども、社会的な面でみると、女性の地位、結婚、養育、そういったことを女性の立場に立って変えようとしたことがわかっていただけると思います。
離婚に関しては、部族社会のそれはズィハール離婚と呼ばれています。夫が「おまえは私の母の背中のようだ」と宣言をすると、妻は事実上の離婚状態になります。これがつらいのは、離婚だったら「さようなら」とその家を去ればいいようなものですが、妻としての権利をすべて喪失するにもかかわらず、夫のもとを去ることができなかったのです。つまり、女性は離婚しても、再婚ができないということです。これに対してイスラームでは、離婚すれば女性は再婚ができます。もっとも、理想はムハンマドと同じく、最後まで連れ添うことでしたけれど。
それから、先ほど聖戦と申しましたが、メッカからマディーナに移った622年はヒジラ暦でいう元年にあたります。ヒジラ歴と西暦の計算は結構面倒臭い。なぜかというとこのヒジラ暦は太陰暦だからです。1年に11日ずつ早くなっていきますから、単純に西暦マイナス622年ではありません。なぜこんなことをいうかというと、イスラームには断食月があるのですが、ヒジラ歴ですから、毎年決まった期間ではなくて少しずつ日にちがずれてきます。ですから断食が夏に回ってくると大変です。食事どころか、水さえ飲めません。女性、ことに妊婦には過酷ですが、この点でも寛大な神は子供や病人とともに妊婦もまた断食を免れるとしているのです。
このように、イスラームのなかに一貫して流れている女性を保護するという考え方は、部族社会での過酷な状況に追い込まれていた多くの女性たちに共感をもって受け入れられたに違いありません。しかし、今日の先進国で、男女同権が当たり前の社会に住む女性たちにとっては保護される存在としての自己を認めることに葛藤もあります。例えば生理休暇や育児休暇は当然と思いつつ、反面で労働市場における女性の可能性を閉ざしてしまうようなことがあると不愉快にさえ感じられるからです。けれども、出産や子育てが男性の人生よりもずっと大きく深刻に女性の人生に関わっている以上、現在でもなお女性の負担を減らそうとする社会的な努力はされるべきだと思います。加えて、個々の男女関係においてはDVやストーカー問題など解決されるべき問題も少なくありません。
現代のイスラーム女性たちを性差別の被害者とみるだけでなく、イスラーム思想のなかに流れる女性保護の考え方、そして、それを形成するために共に闘った女性たちへの共感が多少とも得られれば嬉しく思います。