2012年度 世田谷市民大学 連続講義


「アジア女性群像」

第8回 辻村先生 6月6日 2/4
自由と戒律の狭間で ームスリマたちの闘いー
まず、アラブの春の先駆けとなった北アフリカのチュニジアです。この国は、1956年植民地から解放されて独立を果たしてまもなく家族法の改正案を採択します。これは、イスラーム世界では最も女性を自由な存在であるとした法として評価されます。どんな点が評価されたかというと、イスラーム法で認められている複婚を禁止しました。そして、それが発生した場合には罰金か禁固刑にする、と定めています。これは、コーランの新しい解釈がなされたからです。確かにコーランでは4人まで結婚できると書いてあります。しかし、もらった妻に対しては何から何まで公平に扱わなければならない、とも書いてあります。与えるお金もそうですし、プレゼントもそうですし、愛情も同じだけ注がなくてはならないのです。そのように公平に妻たちを扱うことなど、実際にはできないのだから複婚制度は禁止して一婦制、単婚制にすべきだ、というのです。他にも、離婚に関して夫からの一方的離婚ではなくて、夫と妻の双方が離婚手続きを始めることができるということも決めています。
さらに、養子縁組も可能になりました。養子は、養父養母となった両方の姓を名乗ることができ、父からも母からも相続ができる、としています。それまでのイスラームの教えでは、結婚によって生まれた実子にしか認められてこなかったものを、養子に対しても等しく相続できるような形にしたのです。ムハンマドという人は自分が孤児だったため、孤児に対する愛情とか、優しく育てなければならないということをコーランでも強調しています。こうした教えを養子法に反映させたわけです。それから、1965年、イスラーム諸国では始めて中絶に関する論議を始めることができるようにしました。1973年、女性は妊娠してから3ヶ月の間であれば中絶する権利を持つ、としました。何人子どもを生むかについても、女性が決定権を持つことになりました。
このように非常に先駆的な家族法を設定したのですが、ただし、家長は夫であるという点は改めて明記されました。この点は少し西欧の家族観とは違いますが、それでも実質的には女性にとって平等な法律ができました。そして、チュニジアは他のイスラーム諸国に先んじて1985年には、国連に提出された女性差別撤廃条約に批准したのです。
そんな進歩的なチュニジアですが、気になるのは、ここ10年くらいイスラーム的な言説が支配的となったことです。それまでチュニジアではスカーフもかぶらない女性も結構いたのですが、それをかぶる女性が増えてきたといわれています。複数の結婚というのを受け入れてもいいというのを告白する女性まで出てきているという報告もあります。
では、どうして折角勝ち取ったものを元に引き戻すような事態が現れてきているのでしょうか。1つには女性の経済的な貧困化が指摘されています。イスラーム的な結婚というのは、男性が家族の一員として女性を受け入れ、妻の生活の面倒を見る、ということです。ですから、経済的な苦しさが女性たちをイスラーム的な家族に向かわせるのかもしれません。それに拍車をかけているのがマスメディアによる情報です。中東圏では宗教テレビというチャンネルがあり、そこで民間からの質問、私はこういう事態におちいっているのだけれども、これはイスラームの教えに反しているのだろうか、とかを宗教者に聞く相談コーナーがあります。それについての答が即座に民衆のもとに届きます。それが民衆のイスラーム化に影響しているのではないか、ともいわれています。
確かにマスメディアの普及効果はすごいもので、私が30年くらい通っているエジプトの村でも90年代の終わり頃からテレビが普及し始めまして、今では国際放送も簡単に見られるようになりました。さらに拍車をかけたのが携帯電話で、フェイスブックをしている人たちが農村の中にもたくさん出てきました。テレビを通じて避妊が勧められた結果、たくさん子どもを生むのはいいことだという考えから、子どもは少ないほうがいい、という考えに変わりました。昔は、たくさんの子どもが家族を支えると思われていたのですが、そうではなくて、少ない子供に高等教育を受けさせて、高収入の職に就かせたほうがいいと考えるようになったからです。これは女性にとって、いいことでもありました。なぜなら、それまで義務教育の小学校ですら、女子の場合は途中でやめてしまう、或いは、最初から行かないというケースが多かったのですが、2000年代になると女の子でも大学にいくことが珍しくなくなったからです。しかし彼らが落胆したのは、大学は出たけれど職に就けなかったことです。女子だけではなくて、男子もそうです。2011年のアラブの春と呼ばれる民主化運動の中心になったのは、大学を出たのに仕事に就けない若者たちだったといわれています。