2012年度 世田谷市民大学 連続講義


「アジア女性群像」

第8回 辻村先生 6月6日 3/4
自由と戒律の狭間で ームスリマたちの闘いー
チュニジアで民主的な家族法が成立したのとほぼ同じ頃、チュニジア家族法とは反対の立場での家族法を成立させたのがモロッコです。女性の権利を制限し、一夫多妻を容認、基本的に女性を未青年者として規定した法律で、マーリク法学派の解釈によるイスラーム法に基づいた家族法でした。その後のモロッコにおける女性の運動は、この家族法をいかに変えていくかというところに重点が置かれてきたといっていいでしょう。ファーティマ・メルニーシーという有能な女性リーダーがいながらも、なかなか家族法の改正が進まなかったのは結婚するほかに生活の糧を得る手段をもたない貧しい女性たちの存在でした。ところが、1998年に誕生した社会主義政権が一夫多妻制を廃止します。このことは、イスラミストたちを激怒させました。ある都市では、一夫多妻制に対しての賛成デモが起こり、他の都市では反対デモが組織されました。リベラルフェミニストはもちろん社会主義政権側にたち、下層女性に対する経済支援を訴えました。2000年になってムハンマド6世が即位すると、はじめて王室の参事官に女性が任命されました。担当は国立の石油探査開発局局長です。そして、ようやく新家族法が制定され、女性にとって不利であった法律を改正することができたのです。それは夫婦間の平等、家族の調和、子どもの保護を基本にしており、シングルマザー、あるいは非嫡出子に配慮した家族法でした。しかしながらまだ解決されない問題もありました。一夫多妻婚を廃止するには至りませんでしたし、夫側からの一方的な離婚に関しても撤廃することはできませんでした。
最近の動向として、モロッコの国会は議員の10%を女性に割り当てるということを決め、2007年には34人の女性の議員が誕生しました。このように新家族法が制定されて以降、女性の進出が非常に顕著になってまいりました。しかし、そのいっぽうで1990年代の民営化によってインフレが起こったことや経済の自由化、自由貿易の促進という政策が取られて以降、女性たちは徐々に仕事をなくし、女性の失業率が増えてきました。インテリ女性たちや裕福な女性たちのなかには国会議員になった人もいますが、中間層及び下層の女性たちの貧困化は進んでいるようです。
国連では女性のエンパワーメントとして女性就労を積極的に進めようとしていますが、50年代から60年代の中東地域では女性の就業率は高く、今日では女性抑圧国の代名詞のようになっているアフガニスタンを例にあげると、ターリバンが支配するようになる以前には教員の7割、公務員の5割、医者の4割を女性が占めていました。当時は民族衣装を身につけなかった女性たちも、ターリバーンが権力をふるうようになると、ブルカという全身を覆うような民族服を着ざるを得なくなったのです。そのブルカを着た女性たちに対してブッシュの奥さんが展開したのが、アフガニスタンにおけるジェンダーバイオレンス・ストップキャンペーンでした。生物学的な性ではなくて、文化的な社会的な意味を持つ性、社会的な役割を持った性をいうときに、ジェンダーという言葉を使います。
これは、ブルカが女性抑圧の象徴であるから、それを身につけるのはやめよう、というキャンペーンです。1998年、アメリカ人の医者からなるNPOが中心となって、「ブルカは視覚、聴覚、皮膚の発疹、頭痛を引き起こす。心臓病、ぜんそく、頭皮の疥癬、脱毛、うつ病の原因となる」ということを発表します。アメリカ国内で積極的にこの話が広まって、ブルカはひどく女性を抑圧している、ということになりました。けれど2007年には同じNPOが、こういったことはないと先の報告を撤回しました。
もう一つアメリカが中東で行った戦争はイラクです。イラクでは、最初は共産主義、独立・解放直後はアラブナショナリズムといった勢力が主流で、多くの女性によってそれらの思想が受け入れられ、政治的エリートの階級に属する女性たちは、独立して以降もその時代をよき時代であると認識しているようです。また、そういった女性たちだけでなく、下層の女性たちも社会的政治的自由という点においては、それを享受していました。1958年の軍隊幹部によるクーデターが起こり、その後、イラクナショナリズムを取る共産党と、反アラブナショナリズムのバース党とに分かれます。1963年にバース党によるクーデターが起こってサダム・フセインが政権を取って以降、政治的な抑圧の度合いが強まっていきます。しかし多くのイラク人の女性は、この時代に社会的な経済的な権利というものを獲得したといわれています。イラクに行っていた人からは、かなり高い地位に女性たちがついていた、という話も聞きます。それから彼女たちの服装にも変化がみられ、中にはスカーフさえしない女性たちも多くいたようです。こういった女性の進出によって中流階級が拡大していったことも事実です。アメリカとの戦争でサダム・フセインは随分な悪者にされていますが、70年代80年代の中間層の拡大という意味では、彼の果たした役割も多少は評価できる面もあったのではと感じます。
そうは言っても、イラクではいっぽう家父長権というのが次第に強まっていったことも忘れてはいけません。イラン・イラク戦争後は欧米からの圧力で経済制裁が強まります。それによって、女性とかジェンダーをめぐる保守的な価値観が徐々に高まってきて、1990年から2003年、まだ経済制裁が続くなかで、それまで外で働いていた女性たちも家庭に押し戻され、母だとか妻だとかいう伝統的な役割を社会から求められるようになりました。数字を挙げますと、1990年以前、女性の就業率は23%。これはかなりの割合です。ところが1997年には10%に減少しています。女性は家に戻って、経済力をなくしてしまう。服も、それまでのような自分の好みに合ったものを買うこともできなくなりました。そこで出てきたのが伝統的な黒い長衣・ヒジャーブです。もちろん、イスラミストによるヒジャーブを着ていない女性に対する暴力、弾圧ということが厳しかったこともありますけれど、経済的な貧困も伝統的な服装をさせることにつながったと言われています。