2013年度 世田谷市民大学 連続講義


「アジアの紛争と文化力」

第8回 松岡先生 6月05日 5/6
インド:地域と紛争
もう1箇所、「ヒンディー語言語帝国主義」に強く反発しているのが、北東部の諸州です。下の地図を見ていただきたいのですが、中国からは「南チベット」と呼ばれているアルナーチャル・プラデーシュ州、それから北東部諸州の中心になっているアッサム州、その東側のナガランド州と、その南にあるマニプル州。マニプル州は太平洋戦争の時に、インドをイギリスから解放するという名目で、インド国民軍の兵士たちと共に日本軍がビルマから攻め入った所です。この軍事行動はインパール作戦と呼ばれましたが、そのインパールという町がある州です。日本軍はこの辺の地理や気候に不案内な上、後方支援が途絶えて多数の人が戦死し、このあたりは白骨街道と呼ばれたりすることになりました。あと、南側にはミゾラーム州、トリプラ州、またアッサム州の南側にはメガーラヤ州があります。メガーラヤというのは雲のある場所、という意味で、そのくらい雨量の多い所です。

井上恭子「インド北東地方の紛争-多言語・多民族・辺境地域の苦悩-」より
井上恭子「インド北東地方の紛争-多言語・多民族・辺境地域の苦悩-」より
http://d-arch.ide.go.jp/idedp/KSS/KSS053400_005.pdf

この北東部の諸州ですが、イギリスの統治時代には全域をまとめてアッサム州という名前で知られた地域でした。アッサムというとアッサム・ティーが連想されると思いますが、イギリスの統治時代になって茶園が広がり、茶園の労働者として周辺部からたくさんの人がアッサムに入ってきました。
特に多かったのが、ベンガル地方、現在のバングラデシュとインドの西ベンガル州からなる地方の人々です。距離的に近いので、労働者や商人として大勢の人がやってきます。そうすると教育を受け、商売にたけたベンガル人たちが実権を握るようになり、地元の人たちとの間で軋轢が生じてきます。
さらに、イギリスからの独立を目指してできたイスラーム連盟という政党は、パキスタンという国をインドから分離させて独立する構想ができた時に、なるべくパキスタンの領土を広げたい、と考えました。最終的には今のバングラデシュが東パキスタンになるわけですが、もっと地域を広げる、つまり北東部地方もイスラーム教徒が多い状況になってしまえば、この地域もパキスタンに加えられると考えます。そして意図的に、この地域にイスラーム教徒のベンガル人を移住させていくのです。
それに対し、ヒンドゥー教徒を中心とする政党である国民会議派は、北東部地方はインドから切り離してもいい、と1946年に決定してしまいます。アッサム州にはヒンドゥー教徒も多かったものですから、我々はパキスタンではなくインドに帰属することを望んでいるのに、国民会議派は我々を見捨てるのか、という反発が一挙に噴出します。
結局イギリスのマウントバッテン総督が、いや、やはりここはインドになるべきだ、という決定をして、1947年の独立時にはインドに組み込まれることになりました。ですが、我々はインドから捨てられた、中央政府から見捨てられたのだ、という反発が独立後も残ってしまうのですね。こうして独立後、中央政府との紛争が各地で起きるようになります。
特に反発が強かったのが現在のナガランド州で、1955年には大きな紛争が起きます。ナガランドはナガの土地という意味ですが、ナガと言っても一つの民族ではないのです。14くらいの民族がいて、アッサム州の一部とされるのは非常に不本意だという気持ちが強かった。そこで独立して大ナガランドを作ろう、という闘争が起きてきます。これは中央から軍隊がやってきて鎮圧されますが、その後1963年に、独立はできなかったけれどナガランド州としてアッサム州から分離します。続いて1972年にはメガーラヤ州、それからトリプラ州、マニプル州と、70年代から80年代にかけて次々と州ができていきます。
州になったのちもいろいろな形で紛争は続き、1974年には、アッサム州で外国人排斥運動が起きます。外国人というのは、バングラデシュ人のことなのですね。