2013年度 世田谷市民大学 連続講義


「アジアの紛争と文化力」

第9回 松岡先生 6月12日 2/5
インド:ガーンディーの思想と紛争
本日はインドの3回目で、最後にマハートマー・ガーンディーという人を取り上げてみたいと思います。皆さんも、インド人で知っている人は誰ですか、と聞かれると、多分ガーンディーとお答えになるのでは思います。日本で一番有名なインド人と言ってもいいのですが、その人が紛争に対してどういう考え方を持っていたのか、どういう対処をしてきたのか、そして彼の限界とは何だったのか、そういうお話をしてみたいと思います。
まず、彼の生涯を見てみましょう。それにあたっては、1982年に作られたイギリス・インド合作映画『ガンジー』が参考になりますので、その該当する 映像が見られる箇所をYouTubeの映像で示しておきます。YouTubeの映像には字幕がありませんが、日本版DVDも出ていますので、詳しくはそれをご覧になって下さい。

ガンジー

彼の正式な名前は、M・K・ガーンディー、モーハンダース・カラムチャンド・ガーンディーと言います。日本ではこの映画タイトルのように、最初「ガンジー」とよく表記されていましたが、正しく表記すると「ガーンディー」になります。ただ、今は研究者の方も「ガンディー」とお書きになることも多く、最初の音引きは取っていただいても大丈夫です。
愛称は「マハートマー」で、「マハー」は「偉大な」、「アートマー」は「魂」、つまり「偉大な魂の人」ということです。これはインドの有名な文学者ラビンドラナート・タゴールが、「あなたはまさにマハートマー、偉大なる魂の人だ」と言ったからだと言われています。
それからもう一つ、親しみを込めて、「バープー」という愛称もあります。「父」に対する呼び掛けの言葉で、「お父さん」とみんなから言われていました。
生まれたのは1869年、インド西部グジャラート州の半島に当時あった、小さな藩王国でした。父親はその藩王国に勤めていた大臣だったそうです。レジュメの年表を見ていただくと、「1883年に結婚」とありますが、引き算をすると14歳ですね。14歳で結婚?と思われるかも知れませんが、当時のインドでは、もっと幼くして結婚する幼児婚が一般的でした。特に女性の場合は、処女性を尊ぶことから初潮を迎える前にまず結婚してしまいます。初潮を迎えるまでは実家にいて、赤ちゃんが産めるようになると婚家に行く、という風習がありました。ですので、決して早い結婚ではありません。
ガーンディーは結婚後、4年間イギリスに留学して弁護士資格を得ます。インドは当時イギリス領だったわけですが、宗主国に行き、本国の若者たちと競い合って弁護士資格を得たわけですから、非常に優秀だったと言えます。
その後、1893年に、当時やはりイギリス領だった南アフリカに赴きます。訴訟事件の依頼を受けて、呼ばれて行ったわけです。私はイギリスで学んだ弁護士だ、と胸を張って南アフリカに行ったのですが、そこで彼は非常にショックな体験をします。
南アフリカはご存じのように、人種差別のひどい土地でした。西洋人の白人と、それからカラードと呼ばれる有色人種の差別が存在しました。当時は同じイギリス領ということで、インド人がたくさん鉱山労働者や商人として、移民、あるいは出稼ぎに行っていました。インド人も黒人と同じく、有色人種、カラードとして差別を受けていたのです。
ガーンディーは、自分は弁護士だということで汽車の一等車に乗っていました。昔の汽車では一等車はコンパートメント、つまりそれぞれ一部屋ずつ分かれていて、お金持ちの白人が乗る車両となっていました。するとそこに車掌がやってきて、ガーンディーは汽車からたたき出されます。「なぜだ、わたしはイギリスで弁護士資格を取った人間だ」と言うと、「お前は単なるインド人だ、有色人種が一等に乗るなど不遜である」ということで、車掌がたたき出してしまうのです。

<映像>http://www.youtube.com/watch?v=vJ9ocRjjx1I(00:06 あたり)

そこで初めてガーンディーは、世の矛盾に気付きます。自分たちインド人はなぜこんなに差別されなければいけないのかということに目覚めるのです。そしてその後南アフリカに定住し、そこで働くインド人労働者のために、市民権獲得運動などを指導します。そういう中で、彼自身が一つの運動形態を獲得していくことになります。