2013年度 世田谷市民大学 連続講義


「アジアの紛争と文化力」

第9回 松岡先生 6月12日 3/5
インド:ガーンディーの思想と紛争
その運動形態を、ガーンディーは「サティヤーグラハ」と呼びました。「サティヤ」つまり真実を「アーグラハ」、把握する、という意味です。レジュメに書いたように、言葉で説明すると、「非暴力、不服従という誓いが、それを守りきることによって大願を成就する力を持つ真実の言葉となること、それに徹底的にこだわる」というものです。
つまり力を行使しないが、不服従を貫く。あなたの言うことは間違っているから、自分たちはそれには従わない、あなたとケンカをするが、暴力は使わない、ということです。非暴力(アヒンサー)は、暴力的手段を用いないで抵抗するという意味です。それを貫くと、それが力を持って何かを変えることができる。そういう運動の仕方が「サティヤーグラハ」である。まず真実を自分たちの手につかんで、そしてそれを力にしていこう、ということですね。
この運動を展開し始めると、南アフリカでM・K・ガーンディーという若い弁護士がこんな運動を指導しているそうだ、とインド本国にも噂が聞こえてきます。ガーンディーは22年間南アフリカで活動し、1915年に帰国するのですが、その頃インドでは国民会議派という独立を目指す政党ができていて、彼らはガーンディーにも仲間に加わってもらおうということで帰国を出迎えます。こうしてガーンディーは、国民会議派のジャワーハルラール・ネルーら指導者とともに、インド独立運動を指導していくことになります。

<映像>http://www.youtube.com/watch?v=vJ9ocRjjx1I(00:41 あたり)

その前に帰国直後の1917年、1918年、この頃はインド各地でいろんな問題が起きていたのですが、ガーンディーは頼って来た人のいろんな相談に乗り、闘いを指導していきます。その中で、サティヤーグラハ運動が非常に有効な運動だということを、彼も、それから周りの人も確信していくことになります。
1919年、イギリスの判事が出したローラット法、日本でいうと戦前の治安維持法に当たりますが、反英運動をした者は令状がなくてもすぐ投獄できるといった非常に不当な法律が作られました。それに反対して、国民会議派を中心にサティヤーグラハ運動が展開されていきます。
ちょうどその運動が起きた頃に、アムリッツアルという北インドの町で、集会を開いていた人々に対してイギリス軍が発砲する事件が起きます。集会に来ていた一般庶民が、大勢虐殺されてしまうのです。それから1922年には、チャウリー・チャウラーという中部インドの町で、イギリスは出ていけ、イギリス製品は買うなというデモをしていた人々に、警官が襲いかかる事件が起きます。その結果デモ参加者が暴徒化し、警察署を焼き討ちするという事件に発展します。それを聞いたガーンディーは、私の運動は間違っていたと言って、一時運動を停止するのです。

<映像>http://www.youtube.com/watch?v=vJ9ocRjjx1I(1:24 あたり&1:45 あたり)

その後、ガーンディー逮捕とかのいろんな事件があって、1930年には再び、サティヤーグラハをもう一度みんなに行き渡らせて、運動を起こそうということになります。
1930年の時は何が問題になったかというと、塩の専売です。貧しい人は重労働をしますので、塩と水は非常に大切なわけです。その塩にイギリスは税金を掛け、専売していたのですが、塩はインドの海岸が生み出すものだ、なぜイギリスがそれを独占して我々の生命権を脅かすのか、ということで、ガーンディーは、みんなで海岸へ行って塩を作ろうという提案をします。インド各地で人々が海岸に行き、天日で塩を作っていく、という実力行使をやるのです。これは、塩の行進と呼ばれるようになります。

<映像>http://www.youtube.com/watch?v=vJ9ocRjjx1I(2:06 あたり)

この時は、本当にサティヤーグラハ、まったく暴力を使わないで、非常に大きな打撃をイギリスに与えたという結果になりました。イギリス側も、ガーンディーの指導する運動はすごい力を持っているということで、ガーンディーにいろいろ交渉をしてきて協定が成立し、運動は一時停止しました。そしてガーンディーには、1931年にイギリスで開かれる英印会議への出席要請が来ます。ガーンディーは、インドの一般労働者のような非常に質素な格好でイギリスの会議に出席し、ヨーロッパでも話題になりました。

<映像>http://www.youtube.com/watch?v=vJ9ocRjjx1I(2:20 あたり)