2013年度 世田谷市民大学 連続講義


「アジアの紛争と文化力」

第9回 松岡先生 6月12日 4/5
インド:ガーンディーの思想と紛争
その後、逮捕、釈放といったことを繰り返しながら、ガーンディーは運動を続けていきます。しかしながら国民会議派の反英独立運動は、だんだん政治的な色彩を帯び、イスラーム教徒との対立が激しくなっていきます。イスラーム教徒がムスリム連盟を作り、独立運動は2つの政党の間で分裂の危機に直面していきます。結局ガーンディーは、国民会議派の運動からは身を引いて、自分のアーシュラムにこもるようになります。アーシュラムは道場と訳したりもしますが、南アフリカ時代から造っていた修行場です。皆で共同生活をし、食べ物も自給自足で、衣服も自分たちで糸車を使って綿を紡ぎ、それを織って作る。そういうことを実践する共同体を造っていたわけです。
第二次世界大戦中の1941年頃から、国民会議派は逮捕者が続出し、力がだんだん弱まっていきます。それに対してムスリム連盟は、イギリスの対日本の戦争を支持したこともあって、だんだん力を持っていきます。このことから、やはり国民会議派の精神的なバックボーンとして、ガーンディーに前面に出てもらい、ムスリム連盟の指導者であるジンナーと会談してもらわないと、独立インドが真っ二つに分裂してしまう、ということになりました。

<映像>http://www.youtube.com/watch?v=vJ9ocRjjx1I(2:39 あたり)

ガーンディー自身も、イギリス領インドをどうしても一つの国として独立させたかった。だから、いくら妥協してもいいから、ジンナーが指導するムスリム連盟とは決裂しないようにと努力し、我々は一つの国として独立しようと説得し続けます。ところが、イスラーム教徒の力が強くなると、今度はヒンドゥー教徒が反発することになり、世論も真っ二つに分かれていきます。これ以上ガーンディーが、イスラーム教徒たちも一緒にという主張を続けると、国の中で殺し合いが起きるというところまで来てしまい、結局ガーンディーも折れざるを得ませんでした。
第二次世界大戦が終わってイギリスは、自分たちはインドから出ていくから、インドとパキスタンに分かれたいなら分かれて独立しなさい、ということになります。1947年8月14日にパキスタンが、そして1日遅れて8月15日にインドが独立しました。これはやはりパキスタンの意地というか、インドよりも早く独立したいということで、1日前の独立になります。

<映像>http://www.youtube.com/watch?v=vJ9ocRjjx1I(2:41 あたり)

ガーンディーの理想は、ここでは実現しなかったわけです。実現しなかったどころか、両者は分離独立してしまい、国境線を越えてヒンドゥー教徒はインド領へ、イスラーム教徒でパキスタンに行きたい人は東西のパキスタンへ、ということになります。その間に何年間もの恨みつらみが噴出し、ついにはお互いに殺し合う事件が各地で起きてしまい、それが今に至るインドとパキスタンの対立にまでずっと尾を引いているわけです。
インドが独立の混乱からまだ立ち直れていない1948年の1月、ガーンディーはこの時たまたま財閥ビルラの家に招かれて滞在していたのですが、その家の庭で暗殺されてしまいます。ガーンディーは毎朝人々と会うために姿を現していたのですが、面会人に紛れ込んでいたヒンドゥー至上主義の青年がガーンディーを射殺するのです。
ヒンドゥー至上主義の人々にとっては、ガーンディーはイスラーム教徒と妥協しようとした、インドの純粋性を汚そうとした人物と思われていました。彼を抹殺すべしという意見が、独立前からずっと彼らの間にあり、ついにガーンディーの暗殺にまで至ってしまったわけです。ガーンディー自身が理想としていたのは非常に高いところだったのですが、それに反するようなことがいろいろ起き、最後には、自分が属していたコミュニティーの、ヒンドゥー教徒に暗殺されるという道をたどった人でした。

<映像>http://www.youtube.com/watch?v=vJ9ocRjjx1I(3:02 あたり)

まとめてみると、サティヤーグラハ運動は当時の人々の心を捉えたわけです。ただ、やはりガーンディーのいろんな行動や思想には限界があったということで、レジュメにはその限界点をいくつか挙げてあります。
サティヤーグラハ運動では、その中心になるアヒンサー(非暴力)にあまりにも拘ったために、運動が高揚して暴力的な局面が出てきてしまうと、ガーンディーはすぐさま運動を停止する。民衆はそこで不完全燃焼になるのですが、ガーンディーには自分の信念の方が大切だったというところがあります。
それから農民運動や労働者運動では、階級的色彩を帯びること、つまり地主が我々から収奪している、あるいは工場主が労働者を搾取している、といった思想に基づく階級的な闘いにはガーンディーは反対しました。単純に自分たちの権利を守っていく、そういう形での運動しかできなかった。実際の敵はどこにいるのかがガーンディーには見えていたのかも知れないのですが、それをはっきりとは提示しなかったというところがあります。