2013年度 世田谷市民大学 連続講義


「アジアの紛争と文化力」

第9回 松岡先生 6月12日 5/5
インド:ガーンディーの思想と紛争
それからカースト問題に関することでは、「不可触民(アンタッチャブル)」と呼ばれていた人々に対し、その呼び方はおかしいということで、「ハリジャン(神の子)」と呼ぼうという提案をします。ですが、カースト制度自体に関しては、ヒンドゥー教の根本的な制度であるということで、ガーンディーは容認したのです。
それに対し、ただ呼び名が変わっても差別の構造はそのままだ、と「不可触民」の人たちはガーンディーに反発します。このカーストに属していたアンベードカルは、イギリスで教育を受けて後にインドの法務大臣になり、インド国憲法を起草した人ですが、ガーンディーの考え方に対してやはり批判をしています。アンベードカルは結局、ヒンドゥー教という宗教の中に組み込まれているから、カーストがありカースト差別があるのだ、としてヒンドゥー教から離脱し、仏教徒に改宗します。アンベードカルの思想に共鳴した多くの人が、独立前から独立後にかけて多数仏教徒に改宗し、それは今も続いています。
彼らは今、自分たちは「ダリト」、つまり抑圧されている者であるということから、「ダリト」という呼び名を使うようになりました。政府の側は独立後、そういうカーストのことを「指定カースト(Scheduled Caste)」と呼ぶようになります。いずれにしてもカースト制度自体が崩壊しないかぎり、どんなに呼び名を変えても差別はなくなりません。ガーンディーは一定程度の働きかけはしたのですが、カースト制度自体を変えるという考えまでには至らなかったのです。
それからガーンディーは、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒との対立を何とか解消しようとしたのですが、結局インドとパキスタンは分離独立し、それに伴う暴力事件も多数起きてしまって、最終的には両者の融和を訴えたのが元でガーンディー自身がヒンドゥー教徒の青年に殺されるという結果になってしまいます。これも、ガーンディーの限界と言っていいでしょう。
こういうガーンディーですが、当時の独立運動の中では、やはりカリスマとしての役割を担い、彼の存在によって独立運動が前進しました。また、彼自身の行動によって紛争が拡大したという面もありましたが、やはり非暴力を訴えたサティヤーグラハ運動は、こういう闘い方もあるのだということをインドの人々に呈示した点で、紛争を避ける一方法を示したのではないかと思います。

インドが経済発展した1991年以降、ガーンディーのような質素な生活を旨とする考え方が、現代的な拝金主義や物質主義にだんだん押されていき、ガーンディーの存在感が少し薄らいでいたのですが、最近またガーンディー再評価のブームが起きています。これが顕著に表れたのが、インド映画です。2005年の『私はガーンディーを殺していない』を始め、その翌年には主人公の前にガーンディーが姿を現す『その調子で、ムンナ・バーイー』が大ヒット、さらに2007年には『ガンディー、わが父』という作品が公開されました。
たまたま3作品揃ったということもありますが、いずれも観客に好意的に受け入れられました。特に『その調子で、ムンナ・バーイー』の中で、姿を現して主人公にアドバイスしてくれるガーンディー像は大衆に大受けし、映画評論家が「やはりインドの人々はガーンディー思想を待っているのではないか」というようなことを書いたりしました。
ガーンディーはもう何十年も前に亡くなった人なのですが、いまだに参考文献に挙げたような彼の著作はよく読まれ、ゆかりの場所を訪問したりする人たちも多いのです。今のインドの豊かさに、これでいいのだろうかと考える人たち、その人たちがガーンディーの思想を見直そうとしているのが現在のインドです。ガーンディーの思想が、今のインドが抱えている様々な紛争を解決するところまでは行かないとは思いますが、何らかの作用を及ぼす力にはなってくれるのではないでしょうか。