2013年度 世田谷市民大学 連続講義


「アジアの紛争と文化力」

第6回 土佐先生 5月22日 7/7
東アジアのスポーツ・ナショナリズム:競合と相互依存のモデル
駆け足でしたけども、韓国と中国の事例をご紹介いたしました。まとめになるかどうか分かりませんが、東アジアとスポーツとの関係について気づいた特徴をいくつか挙げておきます。
一つは、もともと東アジアでは儒教的な伝統が根深いので、スポーツとか身体活動というのは、どちらかというと、軽視するというかばかにされていました。ところが近代化の中で、むしろスポーツが国威発揚の手段になるということに目覚めて、それを過度に政治化していくという過程が見られました。その背後にあるのは西洋植民地主義の影響です。まず西洋人に比べて、東アジアの人間が体格的に劣っているとか、スポーツで対抗できないという意識が、根強くありました。そういうコンプレックスを克服したい、そこで「体育」というものを輸入します。
体育とは、先ほどもちょっと触れましたけども、実は日本語です。元をたどれば、英語のphysical educationを直訳して、身体教育、縮まって体育になりました。あるいはドイツのギムナジウムという言葉がありますけども、そういう精神性を備えた身体訓練を非常に強調していく。日本で学校体育が生まれて、それが韓国や中国に伝わったということです。こういう逆輸入された漢字語というのは、民主主義とか哲学とか近代語の中で非常にたくさんありますが、体育というのもその一つです。軍隊や学校を通じたスポーツの発展というのも、これは韓国、中国の特徴として今われわれは受け取っていますけども、もとを正せばこれも日本起源です。日本自身も戦前、今の韓国や中国と似たことをやっていました。そのお話をする時間が今日はありません。国家建設をしていくということと、スポーツを政治化していくということが、非常に重なり合っていますが、戦前の日本にその起源があるということです。
オリンピックを開催することを通じて国威を発揚していくというプロジェクトも東アジア3国に共通しています。日本の場合は東京オリンピックを1964年に開催し、それ以降はエリート主義を低減させて、もう少し国民一般がスポーツに慣れ親しむような方向へと重点をずらしいきました。韓国もかなりそうなっていますけど、中国もそういう方向に行こうとしているということです。
そういう歴史的背景をもつ東アジアのスポーツ・ナショナリズムなんですが、国威発揚とか国民統合に大きな効果があると考えられてきました。でも、本当にそんなに効果があるのかどうかというのは、実はあいまいなんです。その時はワーッと熱狂します。韓国のように、あんなに大群衆が集まる例は他の国にはありませんが、集団的熱狂は同じように他の国でも見られます。しかし、本当にそれで国民統合が進むのかどうか、よく分からないです。
別の面から見ますと、これは東京もソウルも北京もみなそうですが、オリンピックは莫大な赤字を生み出す事業です。アメリカを除けば、オリンピックの主催は経済効果だけ見ると、だいたいは大赤字、損をします。やっぱりそれは、国威発揚とか見栄を張ることであって、経済効果はむしろ怪しいものです。そういうのを誇示的消費といいます。だから同じことを国民の税金を使ってやるといっても、なかなか日本の場合は理解が得られなくなっています。韓国や中国でも、そうした誇示的消費よりは大衆スポーツの充実へと目を向けつつあります。過渡期にあるということは、スポーツと国家の結びつきが、今後どうなっていくのか不透明という意味でもあります。

最後に、ちょっとしたエピソードを紹介します。プロ野球に詳しい方はご存じでしょうけど、日本ハムに陽岱鋼(よう・だいかん)という選手がいます。あの人は台湾のアミ族の出身です。初回の授業の冒頭で、台湾の原住民と日本人との抗争を描いた映画の話をしました。あのセデック族とはまた違う部族で、最大マジョリティーの部族だそうですが、そういう人が日本のプロ野球界で活躍している。これは昨日、今日始まったことではなくて、昔中日にいた郭源治というすばらしいピッチャー、あの人も実はアミ族の出身だそうです。わたしも最近までそういうことをよく知りませんでした。日本のアスリートも今いろんなところで活躍していますけども、国家以前の生活様式を背景にした人びとも、いつの間にかグローバルな流れに乗って、国境を越えた舞台で活躍する時代になっているということです。そういう中で、スポーツ・ナショナリズムはこれからどうなるのかということですけども、よほどこちらも想像力を飛翔させないと現実に追いつくことすら難しくなっていくでしょう。
でも一方で、たとえば日本が本当にスポーツ・ナショナリズムを卒業したかというと、非常に怪しい面があります。これはスピードスケートのメダリストで有名な清水宏保選手の言葉です。「日本はまだまだスポーツ後進国というしかない。五輪の期間中、国中が注目しメダルの数を要望される。選手が責任を感じるのは当然だが、ノルマを課せられているような感じにもなる。それまでの4年間のフォローを国やJOCはきちんとしてきたのだろうか。...五輪の時だけ盛り上がって、終わったら全く関心がないというのではあまりに悲しい」(『朝日新聞』2010年2月23日付)。
韓国や中国の熱狂振りを見ると、日本はもう卒業したと感じる人もいるかもしれませんが、見る人が見れば、日本人も同じことをやっているわけです。政策的にそこまで徹底していないだけです。
最初に紹介しましたように、スポーツそのものが実は戦争だという見方もありますが、本当に戦わないで、他者に対する敵視をもう少し平和的な競合へと変換する一つの制度として機能するのだったら、スポーツ・ナショナリズムもそんなに捨てたものではありません。日本でもスポーツ庁を作る構想が動いており、国家がもっと統合的にスポーツ政策に関わろうとしています。むしろ中国、韓国のやり方に近づこうとしている面があるわけです。これからの東アジアもまた、反目したり競合したりを繰り返していくでしょう。そういう中で、平和な善隣関係を築いていくためのレッスンとしてとらえられるなら、スポーツを通じた競合には大きな価値が含まれています。東アジアのライバル関係がこれからどう昇華されていくか、注目に値します。