2013年度 世田谷市民大学 連続講義


「アジアの紛争と文化力」

第10回 ジンベルグ・ヤコフ先生 6月19日 2/2
ユーラシア国家としてのロシア:果たしてロシアはアジアの一部なのか
そしてソ連が崩壊しますと、アジア地域の自治体首長のポストに就いた政治家たちは、崩壊後間もなくの時期からしばらくの間、経済や国民の生活状況が悪化する中、時には無制限とも言える権限を使って、豊富な天然資源を、大量に国外に売りさばくという、経済政策を進めていくことになりました。やはりこの点で決定的だったのは、ロシアのアジア地域が、モスクワの中央政府とは遠く隔たっていたのに対し、アジア太平洋を中心とする地域の、日本を含めた先進工業国とは、直接に国境を接するほどの近さにあったという点であります。例えばロシア科学アカデミー極東研究所が、1995年に発表したデータによりますと、1993年における年間輸出額の増加は、ロシア全体でわずか1.4パーセントであったのに対し、極東地域では何と18.4パーセントにも達しています。しかも輸出の大半は加工されていない第一次原料でした。
それでは次に、日本にとって最も近い隣人であり、また直接に東北アジアを構成する一員でもある極東連邦管区を、もう少し詳しく見てみようと思います。極東連邦管区は、面積ではロシアの領土の3分の1で、正確には36.1パーセントを占めています。この広い面積に居住するのは、人口のわずか4.4パーセントにしか過ぎません。極東の人口のピークは、1991年のソ連の崩壊の年で、その当時810万人です。その後、1991年から2011年の間に、ロシア全体の人口は3.7パーセントと相当減少しましたが、極東地域に限って見ると、何と22.2パーセント減少しました。つまりこの期間に極東地域は、実に人口の5分の1を失ったことになります。2012年1月1日までに極東連邦管区には、626万5,900人が居住していました。こうした人口の減少は、主に人口の流出によるものです。つい最新出たデータですが、大変正確です。極東連邦管区全体の人口は626万5,900人だけで、また減少していく状態です。極東連邦管区は、北氷洋と太平洋に広く面していることにより、アメリカ、日本、中国そして韓国、北朝鮮に向けられた、いわばロシアの顔の役割を果たしています。その意味では地政学的にもまた経済においても、独自の意義を持つ地域であると言えます。しかもこの地域は、ヨーロッパからアジア太平洋地域に至る、最短ルートを含む空間でもあるわけです。
今度は歴史的な背景を考えてみましょう。17世紀から20世紀初頭に至るまでの、ロマノフ王朝の時代に、極東とシベリアのロシアのアジア地域には、地の果てという評判が定着して、主に懲役刑を受けた囚人や政治犯の、流刑地としての役割に甘んじてきました。ソ連時代に入って、1917年以降、特に20世紀の30年代、40年代には、スターリンのよく知られている強制収容所に送られた囚人たちが、この地域にソ連の軍事的なとりでを、囚人自らの手で築いていったわけです。ロシアが、この地域の支配を最終的に確立したのは、ごく最近のことで、19世紀も半ばになってのことでありまして、その当時は、まず太平洋におけるロシアの前身基地と化していたんです。
極東とシベリア地域の経済開発、地下資源、鉱物資源、漁業資源、森林資源などの開発が始まったのは、やっと20世紀に入ってからのことであります。それによって、極東の軍事化という傾向が、変化するということはありませんでした。1960年代から1970年代にかけて、ソ連では極東の資源に対する注目が高まり、その結果として、専ら国内市場にのみ顔を向けた、事実上閉ざされ軍事化された、資源基地の形成が促されることになりました。これは大変特徴的なことですけれども、そのためにソ連時代の極東地域は、この地域に出入りするにも特別の制限が設けられて、半ば秘密の場所という様相を呈することになります。極東地域に足を踏み入れることは、ソ連国民にとってすら簡単なことではなかったのですから、まして外国人ともなると極東に行くことは、いくつかの公開された地域を除けば、事実上不可能だったわけです。
1985年3月に、ソ連共産党書記長として、政権の座に着いたミハエル・ゴルバチョフは、それから間もなくの1986年に、後にウラジオストク演説として知られるようになりました演説の中で、極東ロシアをアジア太平洋共同体に統合するという構想を示しました。
その後1987年に入ると、いくつかの合弁企業が設立されるようになり、そしてサハリン、カムチャツカなどの秘密ゾーン、閉鎖されていた地域、ウラジオストク市、マガダン市、コムソモリスク・ナ・アムーレ市など、本来の秘密都市が、ソ連国民や外国人にも訪問可能となってきました。1991年のソ連崩壊により、ロシア極東のアジア太平洋圏への統合が、さらに促進されることになります。統合プロセスは、今は初期の段階にあると思われますけれども、実現の可能性は大変に大きいものがあると考えられます。例えば次のような見方が非常に強く、国際的分業の原則に基づく経済協力を行うのに、ロシア極東地域は、絶好の環境にあるというのであります。すなわち労働力を提供することのできる北朝鮮と中国、投資のための資金を持ち、かつ原料を必死にといってもいいくらい求めている韓国と日本、そして資源が豊富でありながら、人口密度が非常に低く、開発があまり進んでいないロシア極東連邦管区、この3者が国際分業体制の独自の経済ブロックを作る潜在力を持っていると十分に思われます。
民族構成についていえばロシア帝国の領土拡大により、16世紀の末から17世紀の初めまでに、シベリアと極東の原住民は、ほとんどすべてロシア国家の構成に組み込まれました。18世紀の初めまでにロシア人は、シベリアの北東国境にあるチュコトカ半島、コリャークそしてカムチャツカにまで到達し、そこでチュクチ人、アジアエスキモー人、コリャーク人、イチメンなどの原住民から激しい抵抗を受けます。東方へのロシアの領土拡大は、アメリカの西方拡大によくなぞらえられます。いずれの場合にも、原住民に対する大変恐ろしい征服が行われて、原住民の絶滅もまれではありませんでした。現在のところ、シベリアや極東の原住民族の数が、時系列的にどのように変化してきたか、十分に裏付けのある論文や著作はありません。しかし領土奪取、またいわゆるヤサク、それは年貢を支払うということですが、そのヤサクの獲得を目的としてきたロシア帝国の、原住民へのアメとムチの政策が、原住民の人口変動について、最大の責任を負うことは疑う余地がありません。こうした極東におけるロシア人の優位は不動のものになっていきましたが、そのような意味で講義の冒頭に指摘したマハティール元首相の懸念は成り立つと思います。